蹄が地を蹴る重い音、鼻孔を麻痺させるのは鈍い酸にも似た錆の粒子。吹き荒ぶ風は常に腐敗した何かの臭気を運び、既に終わらない争いの気配と同化していた。

 地を揺るがす戰の雄叫び、腕も砕けんばかりに響き渡る剣戟、空を引き裂く断末魔の絶叫と、それさえも掻き消し吠え猛る勝鬨。
 主を亡くした馬の嘶きが耳をつん裂き、赤く染まった大地に折り重なった屍の山がその数を増やす中、団蔵はただ息も出来ずに血濡れた戦場に立ち尽くしていた。

 何故自分が此処にいるのかなど知らない。疑問にも思わない。
 ただ、この血生臭い恐怖とは異質な恐ろしい出来事がこれからやって来るということだけを知っていた。


夢 現 戦 場






 幼い子供がいることを怪しむどころか彼に気付きもせずに目の前を駆け抜ける者たちは、何処かの城の兵士ですらない。暴力的な搾取と破壊に逃げ惑うのは、普段はそちらの側であるはずの野盗たちであった。

 戦の後、帰る城を失った落人らが盗賊に落ちぶれ、集団でその近辺を脅かすことは珍しいことではない。だが他の盗賊団を襲っても犠牲の割に実入りは少ないため、標的が被った場合以外で同族と争う者たちは稀である。
 そして此処は、その稀な存在───力を持つが故に殺戮をも楽しむ盗賊たちの、人狩りの場であった。



 ───蹄の音が重なる。
 振り向けば、既に混沌となり果てた弱肉強食の場を更に狂気で包むためにやってきた者たちが、夕暮れに染まる土煙の先に小さく見えた。

「……っ…、…」

 足がすくむ。恐怖が全身を硬直で包むが、何故か瞼だけは閉じることを許されずに、やがて訪れる者たちを見据えていた。
 この恐怖は、死や痛みなどへの本能的なものではない。団蔵が、自らの認めたくない事実がいま露にされようとしていることを知っている故に胸中を占めている、抵抗と忌避によるものだった。

「……嘘だ…」

 辛うじてそう口にすることで、自分が何故か知っているその現実を否定しようとする、が。

 遠くから聞こえていた複数の蹄の音が、徐々に並足から早足へと変わっていく。
 近付いてくる馬たちが巻き起こす風に乗った土埃が吹き付け、やがて視界が晴れてゆくと、周囲を逃げ惑う者たちが一旦しんと静まった。
 ───そして、



「………【赤い髪】だ……」



 ───視界に入ったのは、黄昏の中でなお昏い、緋。



「来た…、奴らが来た!」
「っ【赤い髪】だあぁっ!! 逃げろおぉっ!!」

 悲鳴が爆発し、疾駆してくる馬たちの地鳴りのような足音がそれを掻き消すように被さった。
 響き渡る高らかな哄笑、鞘から次々と抜き放たれる釖の鞘走り、次いで響く肉叢を切り裂き抉る濡れた音。

 虐殺が始まった。


「……どうして…」

 団蔵の呟きを聞き咎める余裕のある者はおらず、いつしか漂い始めた深い霧の中を時折血しぶきが横切る。


 そしてとうとう彼のもとに、騎馬の一騎がゆっくりと霧を分けながら近付いてきた。
 騎手の顔を追って、だんだんと上向く少年の首。徐々に刻まれていく悲愴な表情は、叶うならば信じたくはない事実がそこに現れてしまったことを如実に物語っていた。


「……待っ、…て」

 乗り手の長い髪は元よりその色だった訳ではないらしく、浴びた血脂が乾いて毛束が凝ってしまったために赤黒く見える。未だ染まらずに残っているその色は、栗色。
 同じく血に染まった衣は肩と膝上で断ち切られた軽装で、変色していない藤色の布地が僅かに窺えた。幾人斬ったか、刃こぼれしつつある血濡れた大刀を緩く提げた腕には使い古された黒の晒が巻かれ、同様に鐙に掛けた脛をも覆っている。


「…ねえ、待って、」


 廻らされた騎手の鳶色の眸が、不毛の戦場に立ち尽くす少年を見据える。僅かに見開いたその眼は、すぐにすっと細められた。
 口の端に湛えられた底冷えのする笑みは、狩人の其れ。


「待って、……っどうして!」


 片手は器用に手綱を操ったまま、相当の重量を感じさせる大刀を右腕のみの力で水平に持ち上げる。軽く馬の腹を蹴り、青年は騎馬を駆り突進してきた。
 至近距離での唐突な加速に、咄嗟には反応すら出来ない。駿馬は立ちすくんだ団蔵の頭上を飛び越えざま、恐ろしくよく訓練された動きで瞬時に体駆を反転させた。少年がようやく振り返ることが出来た時には、既に騎上に青年の姿は無い。

 はっと頭上を見上げた団蔵はそして、自らの上に落ちる影を見留めながら。



「───…どうして……? ……せい、は」



 馬の背から高く跳躍した青年の頬の、真新しい十字傷がやけに目につく。
 落下の勢いで肩口から深く斬り下ろされる衝撃と激痛の中で、団蔵は小さくその殺戮者の名を呟いた。




:::*:::*:::*:::




「───っつぁっ!!」

 がば、と身を起こしたのは一瞬の内の行動。
 全身が心の臓になったかのように、左胸から伝わる激しい鼓動が響いて聞こえる。

「っは、はぁっ、はっ…」

 全力疾走の後のように、団蔵は肩で息をしながら周囲を見渡した。昨夜雨戸を閉め忘れた私室は、障子紙を透かして射し込む朝陽にうっすらと赤く染まっている。餌を探して鳴き渡る小鳥たちの声が、縁側で甲高く重なり合っていた。


 しばしの逡巡の後、布団を除けようとして浮かせた腕から鈍い痛みが走った。
 はっと夜着の合わせを押し広げ、左の肩口をまさぐる。そちらの半身を下敷にして寝ていたのだろうが、其処にはただ麻布の跡が残るばかりだった。

「……っ…」

 肩口を軽くさすり、鎖骨の痛みに小さく顔を歪める。
 と同時に、何かがふっと団蔵の脳裏を過ぎった。





 緋色に染まった栗色の髪、


 (響き渡る哄笑)


 どす黒く汚れた藤色の衣、


 (高らかな蹄音)


 焔を映し込んだ鳶色の眼、


 (放たれた斬撃)


 刻まれたばかりの十字傷、


 (飛び散る血滴)





 ────………【赤い髪】。





 気が付けば団蔵は障子戸を引き開け、一目散に走り出していた。

 空を見上げれば陽はまだ山の端から僅かに顔を覗かせた程度だったが、朝焼けに照らされた周囲は十分に視界が利く。馬借たちが寝泊まりしている長屋へと繋がる廊下を夜着を翻して駆け抜け、徐々に起き出していた彼らが訝る中に、彼の姿を探した。

「おや、どうしたんですかい若だんな?」
「っ喜六、せ、清八見なかった!?」

 のんびりした声音が、ふと自分を呼ぶ。咄嗟に振り向いた先に居た声の主が探し人の同室だと思い出し、団蔵は咳き込むように問うた。少年の勢いにやや驚いた様子ではあるものの、喜六は昇り始めた太陽の方を指差す。

「へぇ、さっき出てったんで、多分東の井戸で顔洗ってるんじゃねえかと思いま───」
「ありがとっ!!」
「え、若?」

 言葉が終わるか終わらないかのうちに礼の言葉を投げ出して背を向けた彼を不思議そうに見送る喜六を尻目に、裸足で廊下から地面に飛び降りる。猛然と駆け出した団蔵を見送って、周囲に居た若い衆らは顔を見合わせ首を傾げた。




:::*:::*:::*::




 東の井戸までは少し距離がある。団蔵が井戸を視認出来る距離まで辿り着いた時、薄明るい辺りにはまだ人影はほとんど無かった。


 息を切らしながらも耳を澄ますと、ぱしゃりと明らかに人のものであろう水音が聞こえる。
 井戸端へそっと近付いた彼に気付き、立っていた人影がふと振り向いた。

「───…あぁ、若だんな! 今朝はお早いんですね」
「……清八…」

 蘇芳色の夜着を纏った青年が、団蔵の姿を見留めてにこりと笑った。丁度顔を洗い終えたところらしく、髪や顎の先からぽたぽたと水の雫が滴っている。

「どうしました? わざわざこっちの井戸までいらっしゃるなんて」
「あ、…ううん…」

 そういや手拭い忘れてきてしまったんですよ、と苦笑する普段通りの彼の様子に、小さな安堵とそして、幾許かの戸惑いが胸に湧いた。


「───…清八、………手ぇ見せて」
「はい?」
「……手。…見せてくれないか」
「はあ……」

 団蔵の唐突な言葉にきょとんと瞬きするも、清八はゆっくりと手のひらを上向けた両手を差し出した。

「すみません、水使ってたんで濡れてますけど」
「いいんだ」

 水滴に光る、自分よりは大きな手のひらをじっと見つめる。
 所々に古傷もあるが、とりあえず水以外のもので濡れてはいなかった。

「あの、俺の手…どうかしましたか?」
「…ううん」

 今度こそ安堵の吐息をついて、どことなく緊張の色が窺える彼へ笑みを向ける。顔を上げた団蔵の表情を見て、清八もほっとしたように微笑んだ。
 大丈夫、何も変わらない。
 そう思って、差し出されたままの彼の手を取った瞬間、───団蔵は思わず息を呑んだ。



 冷たい。



 その温度に、危うく握った手を振り離すところだった。
 清八は気付いていないのか、自らの手を両手で握った団蔵の行動にやや照れくさそうにしている。


 ───いや、冷たい、どころではない。
 長時間冷水を使っていたとしても、これまでにはならないであろう。
 …根雪もかくやという程の、これが人の手かと疑うような、冷えきった手のひらだった。


 うすら寒い戦慄を覚えながらも辛うじてその手を離さずに済んだが、すると逆に清八が小さく断って団蔵の手を解いた。風も出てきましたし、そろそろ桶を片したいので、と笑って、元の位置に汲み桶を戻そうと井戸端を裏へ回る。



 …なんだろう、この背筋を駆け抜ける底知れない悪感は。



 井戸の向こうにしゃがみ込んで桶を置いた清八が、夜着の膝を軽く払って立ち上がった。そしてふと東に視線を向けると、その眼がつと細められる。

 ───その瞬間、団蔵の呼吸が止まった。





 もうすぐその全容を現すであろう太陽が、早朝の空と遠い山並を焼いていた。





 東を見つめる彼の姿が、

 『赤く』、

 縁取られて輝いている。





 朝方の風が、青年の 蘇芳色の───黒みを帯びた赤色の衣を、日輪の光でその赤みを際立たせた夜着の裾を、嬲った。
 …数多の命を育んできた筈の陽の真紅が、いま何故これほどまでに恐ろしく思えるのだろう。

 必死に何か言葉を紡ごうとするも、口腔は意味も無く唇を開閉させるだけでその奥の肺まで空気を運んではくれず。
 胸中に蠢く悪夢を否定しようとする団蔵の見つめる先、清八はふと口角を上げた。





 ───緋色に染まった栗色の髪、


 (響き渡る哄笑)


 ───どす黒く汚れた藤色の衣、


 (高らかな蹄音)


 ───焔を映し込んだ鳶色の眼、


 (放たれた斬撃)


 ───刻まれたばかりの十字傷、


 (飛び散る血滴)





 ────………【赤い髪】。





「───……せ、い、は……」
「今日は朝焼けが綺麗ですね、若だんな」


 欠乏した酸素を振り絞り、ようやく声にした名前はあまりに小さく彼には届かない。
 無意識に少年の言葉を遮って、其処に立つ【赤い髪】の青年は振り向いた。


「普段の空より、一段と赤いと思いませんか?」
「………っ…」


 普段は団蔵に安心と愛しさを与える、彼の穏やかな微笑み。
 それが今はただ、安寧とは程遠い殺伐とした何かを連れて怒濤のように押し寄せてくる、先駆けのように感じられる。






 朝陽を背に受けて笑う青年の頬に刻まれた古い十字傷から、光輝に赤く染まった雫が伝い落ちた。