「なぁ、重。…お前、なんで水夫になった」

 岩場に上がって休んでいたとき、舳兄が水平線に目を向けたまま不意に呟いた。
 唐突だったけれど、俺は迷わずに答えを返す。多少は膨らんできた胸を張って、はっきりと。

「舳兄と同じ場所で生きたかった」
「…海女じゃあ、駄目なのか」
「舳兄の力になりたかった。まだ不足なのは分かってるけど、いつか」

 海から上がったあと、ある程度服が乾くまで舳兄はこっちを見ない。だから俺は、よく濡れたまま浜辺を走る。早く服が乾いて、舳兄がまた俺を見てくれるように。

「……そうか」

 上がったばかりだから、まだ服は乾いていない。
 それでも舳兄は今、俺を見て微笑んでくれた。一言だけ呟いて、また海原へと視線を戻す。
 やさしいひと。
 傍にいることを許された気がした。




相 棒






「よぅ、お重」

 水軍館の裏手で湿った薪を炙っていると、何人かの兄役たちに囲まれた。普段俺の指導をしてくれているのは鬼さんと義丸兄さんだが、彼らは別の班の指導役だからあまり面識は無い。

「…俺は『重』です」
「ンなこたぁ良い、お重」

 入軍する時に女の名は捨てた。お頭も、俺の決意が翻らないのを知って許してくれた。舳兄も他の皆も、俺を仲間として見てくれる。網問が入ってきた時も同じだった。
 繰り返される過去の名に、俺だけじゃなく、今の俺を認めてくれている皆が軽んじられている気がした。

「お重、ちょっと付き合えや」
「…どこにですか」
「『どこに』じゃねえよ。野暮だなァ、分かんだろうが」

 彼らが言わんとするところは薄々気付いていたが、敢えて会話には乗らず手にした薪を返す。

「仕事なら誰か手空きの水夫に言って下さい」
「かまととぶってんじゃねえ」

 腕を打たれ、薪を取り落とす。拾い上げようと手を伸ばす前に、肩を掴まれ館の裏戸へ強かに背を打ちつけられた。

「…俺は男です」
「ンなでけぇ乳の男がいるか」

 睨み付けてもどこ吹く風で、彼らは俺に手を伸ばしてくる。躊躇無く小袖の合わせを割り開かれ上半身をはだけられた時、濡れて貼り付いた服にさえ目を向けようとしなかった舳兄の姿が脳裏に浮かんだ。

「……っ!」
「こ、んのアマっ…!!」

 何の前触れも無く、目の前で俺を押さえ付けている男の急所を思い切り蹴り上げる。悶絶したそいつが肩から手を離した瞬間に身を屈め、掬い上げるようにもう一人の顎に拳打を放った。
 二人沈めたところで空いた囲みをすり抜けようとするが、襟首を掴まれて無様に転ぶ。傍に置いてあった桶の僅かな水を頭から掛けられ、服に染みた残りが地面に滴った。

「じゃじゃ馬だねェ、お重ちゃんは」
「っ…!!」
「俺が乗りこなしてやるよ」

 残りの二人が苛立ちを含んだ笑みを宿しながら、潮を含んだ土の上に俺を引き倒す。
 一人が俺の腕を纏めて押さえ付け、もう一人が馬乗りになり、奴らは歪んだ顔で笑った。


「存分に嘶け」


 袴の帯を解かれながらも、助けを呼ぼうとは思わなかった。


 ある程度は予想していたことでもある。男所帯に単身入っていくならば、そういう意味で狙われることは当然だろう。
 ならば覚悟はするべきだ。いざという時は一人で切り抜け、敵わなければ与えられる蛮行に耐え忍ぶ覚悟を。
 それだけの想いを持って、自分は水軍の門を叩いたのだ。海女になる道を捨て、全ては彼の人の力になるために。


「う、ぁ」
「ほうれ見ろ、お前の体のどこが男だ」

 楽しげに衣を剥きながら宣う男に触れられて体が跳ねる。
 助けを呼ぼうとは思わなかった。自分は男なのだから。男なのだから、耐えられる。
 ―――彼に迷惑をかけるわけにはいかない。

「大声でも出すかと思ったが、そうでもねえってことはお前も案外楽しんでるのか?」
「くぁ、…っ」

 下卑た笑いに喉を震わせ、男二人が体をなぞる。

「(叫んでいるさ、)」



 この胸の内ではひたすらに愛しいあの人の名をただただ。




「(―――ああ、終わったら、着替えて海へ行こう)」


 きっとあの人はそこにいる。乾いた服を纏って行けば、俺の目を見て名を呼んで笑ってくれる。
 潮はこれから得るであろう傷を抉るかもしれないが、それでも禊ぎには必要な気がした。
 男の手がそこへ辿り着く。虚ろを見つめ、現を忘れようと力を抜いた。

「(舳兄、舳兄)」


 あなたの力になりたくて、俺は女を捨てたんだ。
 泣き言なんて言わないよ、俺が選んだ道だから。
 後悔なんてしてないよ、あなたが認めてくれたから。


「(…舳兄)」


 ただ一つだけ、この胸の中であなたの名前を呼ぶことだけは、どうか許して欲しいんだ。
 俺に残った女の心には、あなたの色しか残っていないから。


「……みよ、に…」
「あぁ?」

 思わず零れた小さな小さな掠れた声は、目の前の男たちには届かなかったらしかった。
 俺の上に乗っている男が怪訝な表情で顔を上げ、―――鈍い音と同時に横に崩れ落ちる。

「……えっ」
「てめぇ、よく―――がっ」

 頭の上の方から怒声が聞こえたが、そちらも同じような音に遮られたと思うと、腕の戒めがふっと緩んだ。

「…舳兄、…義兄…」
「何してくれてんだてめぇら、うちの可愛い『弟分』に」

 もう意識を飛ばしているそいつらの胸倉を掴み上げ、義丸兄さんが怒りが収まらないというようにもう一発喰らわせた。舳兄は無言で小袖を脱ぎ、体を起こした俺の上半身を隠すように前から掛けてくれる。

「…義兄、そいつ相当出血してるみたいですけど」
「死んでも良いと思って殴った」
「そうですか」
「お前も似たようなモンだろうが」
「俺は殺そうと思って殴りました」
「よくやったミヨ、死んでないけど心意気は天晴れだ」

 言いながら義丸兄さんは頭から出血している二人を担ぎ上げ、こちらに背を向ける。

「やりたかないが、一応こいつらの手当てしてお頭に報告してくるわ。そっちの二人は重がノしたのか?」
「あ、は、はい」
「さすがうちの精鋭、しばらく目ェ覚まさないだろうから後で取りに来るな。そいつらはほっといていいから、ミヨあとよろしく」

 細身なのに見た目より遥かに力のあるらしい義丸兄さんの姿にはいつも驚かされる。自分と同じかそれ以上ありそうな男二人を軽々と抱えて、彼は館の裏戸から中へと消えて行った。


「…重」

 名を呼ばれて振り向いた瞬間、強く抱き締められた。

「舳兄、」

 駄目だよ舳兄、俺今濡れてるんだ。
 舳兄に見てもらえない格好なんだ。
 着替えて男に戻りたい、そうしたらきっとまたあなたは俺を見てくれる。

「……どうして助けを呼ばなかった」
「…迷惑、かけたくなかったから」
「どうして抵抗しなかった」
「覚悟は決めていたから」

 一言答えるごとに、舳兄の力が強くなる。
 心の堤を壊そうとしているみたいに。


「―――どうして、俺の名を呼んだ」
「…そんなの、」


 俺より泣きそうな舳兄の声に、とうとう俺の堤は切れた。


「そんなの、…当たり前じゃないか…!」
「重、」
「俺は舳兄のために此処にいたいと思ったんだ、何があったってあなたの傍にいようと思ったんだ、持ってるもの全部捨てたって良かったから戦おうと思ったんだ、あなたが俺の支えなんだ、舳兄がいるなら何されたってきっと生きていけると思ったんだ…!!」

 鉄砲水のように言葉が溢れ出す。
 舳兄の力が、これ以上ないくらいに強まった。

「…なら、それならせめて、大声で呼んでくれ。俺がお前の支えだって言うんなら、俺が何処にいたって聞こえるくらい、力の限りに俺を呼べ」
「……頼りたくなかったんだ」
「どうして」
「俺が、…女だって、思い出すから」

 ふっと力が弱まって、少しだけ体が離される。
 濡れている体で初めて覗き込まれた瞳には、舳兄の真剣な顔が映っていた。

「女は弱いから、誰かに頼るんだ。自分を守る力が無いから」
「違う、重。女は強い。場合によっては男よりも遥かに」
「でも俺は、女じゃなくて男の強さが欲しかったんだ」
「確かに男も強い、お前の言うように女とは違う強さがある。でも重、俺はお前に呼んで欲しい」
「どうして」

 ―――間髪入れず告げられた言葉に、息が詰まった。





「相棒だから」





 俺は、もしかしたら、舳兄を軽んじていたのかもしれない。


「男とか女とか関係なく、お前は俺の相棒だから。きっと俺も苦しい時には、お前の名前を呼ぶだろうから。お前が俺の傍にいることを選んだ時に、『重』であることを選んだ時に、俺も同じ道を選んだんだから。助け合って生きていこう、男でも女でもなく、二人だから生まれる強さを持って」

 舳兄の背中を追いかける自分、という構図を勝手に作り出していた。きっと届かないけれど、がむしゃらに走り続ければ、此処にいる資格が手に入るような気がしていた。
 舳兄はもう、振り返って手を差し伸べてくれていたのに、俺がそれに気付かなかっただけなんだ。


「…ごめん、なさい」


 たくさんの意味を含んだ謝罪が、唇から零れ落ちる。

「謝る必要なんか無い。ただもっと、何も考えずに、俺を頼って欲しいんだよ。相棒」

 誰よりも女を捨てたつもりで、誰よりも女であることにこだわっていたのは俺だった。

「…うん。…舳兄も、俺を頼って。まだ頼りないけど、いつかきっと強くなるから」
「いつかじゃない、」

 笑って返した俺の言葉に意外な程強くかぶりを振って、舳兄は立ち上がりながら俺の髪をくしゃりと撫で、微笑んだ。



「お前はもう、誰よりも強い」



 意味が分からず目を瞬かせるが、続けられた言葉に、詳しい説明は無くともその言葉を甘受しようという気になった。

「だから重、俺は安心してお前を頼れるんだよ」








 着替えなくて良い、と思った。


「舳兄、海に行こう」


 きっともう、服を乾かそうと浜辺を走る必要は無い。


「潜るのか?」
「うん!」


 あなたの差し出した手にようやく俺が気付いたから、これからきっとあなたはどんな時も、俺をまっすぐに見てくれるだろう。


「いいさ、行こう、重」


 広い海原の中でも、あなたの隣で泳ぐことを選んだ。






「行こう、相棒」






 助け合って生きていこう。




 男の強さだけじゃなく。

 女の強さだけじゃなく。








 二人だから生まれる、この強さを持って。














 友人の水銀さんに捧げます。
 彼女がいなければ絶対に女体化とかやんなかったもの…!!
 重は何カップだ網問は何カップだとかいう話ばっかりしてます。後悔なんてしてないよ、あなたが認めてくれたから!(台無し)
 ところで私が義兄好き過ぎる件について(つける薬はありません)
 いーじゃんあんな男前そうそういねーよ!!
 次回の更新は恐らくうちの義兄がどんな人かについてです(清団清メインのはずなのに水軍ばっか更新してるな)