やさしいこ。



あ お い 世 界






「どうしたの、舳兄」

 何も言わず高い高い崖の上から遥か彼方の波へ身を投げた。
 特に構えず、息を溜めることもせずにただ文字通り倒れこむように。




 海鳥が笑った。




「……っしょ」

 落ち行く途中、風に塞がれた筈の耳がその息吹を捉える。

 ───それがただの呼吸なのか、微かな呟きなのかは知らない。

 重なり合う風切音、それでも何故かこの眼は開かなかった。



 ああ、着いてきたのか。



 空の上から海の底へと風に嬲られ鳥に啄まれ呼吸を無くしながら果てなくただただ墜ちる者に、

 着いてきたのか、






 やさしいこ。







 目を開けない。
 世界は今、

 何より遠い(あお)と、
 何より深い(あお)と、
 何より愛しい(あお)だけに彩られている筈だから。


 あおの世界に魅せられ抱かれ、一目見たなら囚われる。


 何物にも束縛されずただ海の原へと吸い込まれる(さかさま)の躰、



 輝く日輪を求めて伸べた手が、瞼の裏の暗闇の中、強く強く掴み取られた。


「───重、」


 落ちながら引き寄せられる躯、陽の光とは違う温もり、ついに瞼は押し上げられる。



 何より遠い蒼弓と、
 何より深い碧海と、

 何より愛しい青眼が、

 視界いっぱいに広がった。






 綿つ海が、笑う。




「…ぃっしょ」



 呼吸ではなかったその小さな囁きが、熱く熱く胸を焦がした。


 頭上にある海原へと昇りながら、その熱だけは決して離さぬようにと 力の篭らない腕で必死に繋ぎ止めようとする。
 縋るような眼差しに察してこの軆ごと包み込んでくれる蒼い想いを感じ、熱い何かが込み上げた。




 賢い者を殺すのは、何時の世もかなしみ。

 喪った(かな)しみと、失うまいとする(かな)しみに、愚かと知りつつそれでも賢者は手を伸ばす。







 かなしく微笑った、






 やさしいこ。
















 刹那に突き抜けた碧い水面は、蒼い空を映して青く美しく煌めいていた。






 星数の水泡(みなわ)に包まれて、生まれ暮らしそして還るべき潮が全身を満たす。

 深みを求めるこの躰を強く抱いて、若い青は再び高みを目指し水を蹴った。



 苦しさは無い。この呼吸はまだ、海に暮らす者の持つ息吹だった。





 それなのに、それなのに、嗚呼何故、───この脚は。





 沈んでしまえばいい。
 沈んでしまえばいい。

 海に生まれ海に生きるためのこの軆が其処に相応しくなくなってしまったのなら、せめてその糧となり深く深くその懷に呑まれてしまいたかった。


 涕も聲も渇れる程の嘆きに身を折って啼血し、最後に選んだのは還る道。
 独り色の無い世界まで墜ちてゆこうと、動かぬ両の脚を引き擦って海に続く空へと身を任せた筈なのに。
 気付けば今傍らには、鮮やかな生命に溢れた青が居る。


 …引き込んではいけないと、知っていた。


 一瞬だけ躯に走った抵抗の気配は、刹那に水へと霧散した。そして恐らくそんな足掻きなど物ともしなかったであろう力に支えられ、淡く輝く水面がぐんと近付いてくる。




 見渡せばこの千尋に限りない水の中、何もかもが、あおい。そうでないのは、赤錆にも似たこの軆だけだった。色味だけの意味ではなく、体も心すらも錆び付いて鈍い軋みを上げながら朽ちてゆこうとしている。


 今更ながらに、自分はこの美しい世界とは異質な存在であったのだと思ってかなしくなった。


 この手の届くことの無い穢れぬ其処がひどく愛おしく、そして同時にその世界に受け入れられることの無い此の身がどこまでも悲しい。

 なんて(かな)しい、なんて(かな)しい、





 なんてかなしい、あおい世界。






 たゆたう光の層を破った刹那、風が一瞬だけ水飛沫を運び天へと帰って往く。


 ───気が付けば静まり返った世界の中で、三つの『あお』に抱かれていた。













「…一緒だよ、舳兄。」



 ひとつの青が、囁いた。



「し、げ、」



 掠れた声音は、赤かった。



「思い出して。俺たちが初めて会ったあそこで、たったひとり俺を守ってくれたのは舳兄なんだ」



 駆け抜けた過去は、蒼の色。



「忘れないで。俺はなんにも出来ないけれど、代わりに絶対離れない。何処までだって着いていく」
「お前は───」



 覗く心は、紅かった。



「前を向いて。舳兄のかえる場所を教えて。俺がそこまで連れて行くから。一緒に行くから、だから、」



 見果てぬ未来は、碧の色。






「…置いてかないで、舳丸。」






 ―――こぼれた雫は、あおかった。















 蒼が呼ぶ。

(空へ帰れと、)



 碧が呼ぶ。

(海へ還れと、)



 青が、呼ぶ。

(共にかえろうと、)








「俺の、かえる、場所は……───」








 やさしいこ。








 この赤い手で、お前の青い青いその手を取っても良いのだろうか。








 押し殺した震えに支配された指先で、目の前の青へと手を伸ばす。
 肩口に伏せた面差しに伝うものは、見えずともその熱で知れてしまうだろうけれど。


「…かえろう、重」


 選び取った、かえる場所。
 その声に笑んだ、掛け替えのない青の色。



「かえろう」



 強い力が体を支え、彼方の浜辺がゆっくりと近付き出す。
 還るつもりであった深い碧が、かえるべきところとなった若い青に道を譲った。






 もう嘆かぬというわけではない。
 いずれまた、海に生きられぬこの身を憂い叫ぶだろう。
 何故だ何故なのだと己に問うて、くれないの涙を落とすだろう。

 それでも今は、この青へとかえることを決めた。
 その眼差しに映った赤は、瞳の色に包まれて青く輝いていたから。













 やさしいこ。



 帰るべき蒼も還るべき碧も捨て、青いお前のもとへとかえろう。

 きっとお前がいれば、あおの中でも生きてゆけるから。







 やさしいこ。

 あおく、かなしい、やさしいこ。

 あおの流れに、この身を晒そう。








 赤く錆びたこの身体がいつか、同じ青へと、かえるまで。












 水軍ですから海戦などもたくさん経験していると思いますが、そんな怪我とかが原因で、もしも水練の者が脚に障害を持ってしまったら、という話です。
 私はハッピーエンド至上主義なので、悲惨なまま話が終わることはほぼありませんが(笑)珍しくこの話はイフストーリーということもありますが、断言します、うちのサイトでキャラが不治の病になったり残りの生涯通して身体的障害を負ったりすることはまずありません。(言い切った)(後に引けなくなっ(ry

 ちなみにこのあと浜に帰った二人は、事の顛末を知った水軍メンバーにフルボッコされながら抱きつかれたり泣かれたりでもみくちゃにされます(主にミヨ)
 一番感情的になるのは義兄(えー)