団蔵が密やかに加藤村へと戻ってきたのは、ある年の夏の最中、望月の夜だった。



腕の中の太陽




 虫の声を途絶えさせることなく気配を溶け込ませ、その姿は駆けた。闇の中閃く忍装束に凛とした夜気を纏わせ、音も無く大地を蹴る。体重など持ち合わせていないとでも言うかのように軽やかに舞ったその肢体は、砂一つも落とさずに村の石垣へと降り立ち、巻き起こる微風に結い上げた髪をゆるく流して彼はやがて静かに眼下を見遣った。

 忍が厭う、冴え冴えとした明るい月夜。懐かしの生まれ故郷はしんと寝静まり、厩番が灯している僅かな明かりだけが、その傍の長屋から洩れていた。
しばし逡巡してから、青年は馬借の誰かが詰めているであろうその長屋へと向かう。

 気配を消して明り取りから覗き込めば、予想に反して部屋の中には誰もいなかった。月も西へとかかり、日の出も近いこの時間ならば厩番も既に就寝しているはずだが、無人の部屋には油の炎だけが小さく灯っていた。表に回り、板戸を引き開けて土間へと上がる。
 障子戸の奥、虫の音が透ける薄い壁の際に据えられた小机。その上に投げ出すように置かれた見覚えのある手拭いを眼にしたとき、彼は今夜の厩番が誰かを知った。

「───……ぃ、はち…」

 自らにすら聞こえないほどの呟きが、顔布の下薄く開いた唇から零れる。
 次の瞬間、長年使い込んだ感のある目の前の手拭いを咄嗟に取り上げて、彼は隣の厩へと急いだ。



 夜の中、思い思いに夢を泳ぐ変わらない馬たちの姿に、思わず口元が微笑む。いなくなってしまった馬も、新しく入ったらしい馬も居て、村を発ったあのときから月日の流れを感じさせるが、馬たちの静かな息遣いは昔と同じ、聞き慣れた音だった。
 動物は気配に敏感だが、団蔵がそれを消すことにひどく練達しているのか、はたまた慣れ親しんだ気配に心配は無いと無意識に感じたのだろうか。恐らくどちらもが正解なのだろう、眠る馬たちが眼を覚ますことは無く、そして彼にはそれが嬉しくもあり、また自嘲の笑みにも繋がった。
 今は馬たちを視線で撫でるだけに留め、早足で厩の正面を横切る。探し求める存在は必ずそこにいると、彼は確信を抱いていた。

 長屋からは厩を挟んで南側に、小さな垣がある。
 厩の境と垣の間の場所は、昼間の日当たりは良いのだが如何せん何が出来る場所でもなく、また用事で来るようなことも無いので、ちょっとした穴場となっていた。幼い時分、天気の良い日はそこに来て、うつらうつらと日向ぼこりをしながらやがて眠りに落ちたことを覚えている。夕刻まで団蔵が気付かず、飛蔵が息子の姿を眼で探し始めると、いつだってそんな時には、誰よりも早く清八が迎えに来てくれたものだった。




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 村を発つ前の或る日、あの場所に種を植えた。

 まだ団蔵が学園の生徒だった頃、同じ組だった学友のしんべヱから貰ったものだった。彼の父が貿易をしており、卒業も近いことだし先生や友人たちに記念に贈るようにと、息子に外つ国から輸入した色々なものを渡したらしい。珍しい南蛮の品々が詰められた袋をそれぞれ贈られた級友たちは驚きながらも喜んでいたが、団蔵はふとその中の小さな紙包みに目を留めた。

『なあしんべヱ、これ何だい?』
『あ、それはね、お花の種だよ。日本にはまだあんまり無いんだけど、花がおひさまを追っかけて頭を回すんだって』
『へえー、面白いね』
『種は食べられるんだよ! 黄色くって大きいお花でね、夏に咲くから、良かったら植えてみてね』
『うん、ありがとう』

 異国のその花は、日車といった。太陽を追うという特徴を聞いたとき、脳裏には真っ先にあの場所が浮かんだ。




 卒業後、馬借の裏稼業としてフリーの忍者を続けることを決めた団蔵は、すぐには帰宅せずにそのまま小さな忍務に就いた。それ自体は大した危険も無い仕事だったので彼もすぐに任務を完遂し、本来ならばそのまま帰投出来るはずだったのだが、そこへ唐突にその仕事を斡旋してくれた人物から緊急招集の連絡が入り、団蔵は近江の国、加藤村よりも北の境に近い集落へと飛んだのである。
 そこで新たに任された忍務は、長期のいくさ忍の仕事であった。正確には期限設定はなく、仕事の完了は遂行条件達成、つまり戦の終結まで務めることで、云わば終わりの見えない任務である。さすがに引き受けられないと辞退しようとしたのだが、仲介人に現時点での勢力図を見せられたとき、団蔵はこの依頼を断ることが出来ないことを悟った。

 団蔵が付くように乞われた城は、一部の守りがひどく薄くなっていた。人員配置を見れば、そこへ展開した隊にだけ忍も付いておらず、渓谷と山に挟まれた、戦闘にはひどく不向きな山道である。他の場所から援軍を送るには何くれと自然に阻まれるだろうし、かといってそこを放棄すれば敵は必ずそこから守備の裏へと入り込んでくるだろう。そんなことをしたら左翼、右翼と中央それぞれが包囲、各個撃破されて終いである。
 それだけならば、団蔵が引き受けずともただ知らぬ城が落とされるだけだが、問題はその先にあった。守備の薄いその山道は、兵の張っている地点を通り過ぎるとこちら側はなだらかな道となっており、大人数でも通り抜けが可能な広さがある。戦火に紛れて略奪を行うような者どもにとっては、格好の通路であった。野営地としても適しており、人家もまばらである。

 そしてその道は、あろうことか、加藤村のそばを通る街道へとまっすぐに続いていた。




 依頼を受けてから帰省したその日のうちに、団蔵は荷物の中から種の入った紙包みを携えて、厩の南を訪れた。変わらずに日の照っている垣のそばを浅く掘り、日車の種を植える。
 狭くはあるが自分で新しく耕した土を見ながら、やはりその日も眠ってしまったらしい。そっと揺り起こされたのは、辺りが朱に染まった黄昏時だった。

『…せい、はち…?』
『はい。起きて下さい、若だんな。そろそろ夕餉の時間ですよ』
『あ、うん、ごめん。夕飯の支度も…』

 自分を目覚めさせるこの声の優しい調子も、随分と久しぶりな気がした。
 眼を擦ろうとして、土を掴んだ掌ではさすがにまずいと服の肩に顔を擦り付ける。急いで立ち上がろうとして足がもつれたが、青年は微笑ってそれを制した。

『大丈夫です、若だんなも帰ってきたばかりですし、疲れてたんでしょう? 親方も今日くらいは手伝わなくていいって言ってましたから、心配しないで下さい』
『ありがと、清八』
『いいえ。…それより、手が泥まみれですけど…何かやってらしたんですか?』

 清八の不思議そうな視線が、つい先ほど作った小さな花壇に向けられる。なんとなく誇らしい気持ちになって、団蔵は一緒に眼を向けた。

『ああ、うん。───学園の友達の、しんべヱって分かるよね?』
『はい、しんべヱくんですね』
『そのしんべヱがさ、皆に南蛮の贈り物をくれたんだ。卒業も近いしって』
『そうですか…いい子ですねえ』
『うん。それでね、その中に、異国の花の種が入ってたんだ。ひぐるまって言って、夏に咲くらしいから、植えてみたんだよ』

 その言葉を聞いた清八は、どうしたことか何やら考え込んでいるように見えた。

『…ひぐるま…───ああ、ひまわりのことですね! 俺も見たことがあります』
『えっ、清八知ってるの? ひ…まわり?』

 意外なその台詞に、団蔵は軽く眼を見開く。

『ええ。前に俺がかなり遠方まで配達に行ったことがあるんですが、覚えてますか? 帰ってくるまでに足掛けで半年も掛かりました』
『ああ、あの時かー…僕が春休みに帰ってきたときに清八が出かけたのに、帰ってこれたのは僕が夏休みに帰ってきたときだったよね』

 今までもこれからも、団蔵が知る限りでは最長距離及び時間の配達だったと思う。依頼主も届け先も、それぞれの地方では有力な豪族だった。本来ならば飛蔵自身が出ることも考えたのだが、親方がそんな長期間村を空けるのは事実上不可能だと言うこともあり、馬借の誰かを送ることになったのである。
 若いながらもそんな配達を任される清八は、幼かった団蔵の憧れだった。

『はい、そうです。あの時は届け先のお屋敷に宿を借りたんですが、そこのお庭にひまわりが咲いていたんですよ』
『へえー…』
『配達の依頼主の御仁が貿易をやってらっしゃったそうで、届け先のご主人に、以前ひまわりの種を贈られたんだそうです。それ以来ご主人はひまわりの花を大層気に入って、毎年植えられるんだとか。ひまわりのお話を、色々聞かせて頂きました』
『いいなあ、僕も早く見たいや!』
『ええ、若だんなにお見せしたかったですよ。帰りに、種は今切らしているから、咲いているものを一輪切って下さるってご主人が仰られたんですが…切り花が三月も持つはずありませんし、その時はご遠慮させて頂いたんです。でも、若だんながここに植えられたんなら、今年からは加藤村でも見られますね』

 青年はそう言って口元を綻ばせ、夕暮れに染まった新しい土の色を眺めた。

『楽しみだね! ───そういえば、ひぐるまって、おひさまを追っかけて頭を動かすんでしょう?』
『そうですね、ひまわりって名前はそこから来てるそうです。でも、日が照ってるほうに向かって最初は咲くんですが、花が咲いてからは東を向いたままで、ほとんど動かないんですよ』

 随分とそのご主人に薀蓄のあるところを披露されたようだ。何気ない問いに返ってきた言葉は意外と細やかで、よほど繰り返し聞かされたのだろうと想像して笑みが零れる。

『そうなんだー…じゃあ、【ひまわり】って名前、変だよね。ずっと太陽を見てるってことでしょう? 太陽は動くけど、ひぐるまは動かないのに』
『そうかもしれませんけど、俺は意外と当たってるんじゃないかと思いますよ』
『え、どうして?』

 聞き返した団蔵に笑いかけ、清八は沈み行く太陽に眼を向けた。

『最初に、お天道様を見つめて花を咲かせるでしょう? それは、ひまわりが、お天道様はあそこにいるんだって、ずっと見ていたいって、思ったからじゃないですか。お天道様は、ずっとそこにいるって信じて』
『うん』
『でも、ひまわりは動けないじゃないですか。だから、最初に見ていたお天道様を、じっと見つめてるんです』

 静かに振り返った清八の面は夕闇に紛れ、団蔵には彼がどんな表情でこの言葉を呟いたのか分からなかった。


『───自分の大事なお天道様が、またここに戻ってきてくれるまで。…ずっと、待ってるんです。』


 遠くを見るようなその声音に、思わず強く拳を握り締める。乾いた土がぱらぱらと剥がれ落ち、ゆるやかな風に僅かだけ流されて散っていった。



 その晩、団蔵は父親に、長期の任務に発つことを告げた。






 今考えてみると、清八は既にあの夕暮れ時、団蔵が留守を決めていたことを知っていたのかもしれない。

 月が耿々と照る晩だった。隠密行動には不適な夜ではあったが、急ぎのため細かく気にしてはいられない。出立の準備を整え、団蔵は村を後にしようと厩の裏の垣へと向かった。どうせ正面から堂々と出ることは出来ないのだし、せめて愛馬に達者の願いを告げ、最後に結局見ることは出来なかった日車の花へと無事を祈ってからあの垣より発とうと思ったのである。
 厩に繋がれた能高速号は、現れた主の姿に微かに鼻を鳴らした。しばしの別れを告げにきたことを知っているのだろうか、この名馬も心得たもので高らかに嘶くようなことはせず、ただ低く息を吐いて団蔵の頬に顔を擦り付けた。いつかまた彼を駆り、共に野を駈けられることを思って、自分の帰りまで達者であることを願う。
 隣に繋がれていた異界妖号にも向き直って鬣を指で梳いてやり、自らが与えたその名を、帰ってきた時にもまた聞けるようにとその頸を抱いた。

 主だった馬借の仲間たちには、しばらく留守をすることを既に言い渡してある。本当ならば、学園を卒業して村に戻ってきた時点で実質上の親方就任となるはずだったのだが、急なこの任務によって、団蔵が帰るまではこれまで通り飛蔵が村を仕切ることとなっていた。皆口々に次代親方の無事を祈り、一日も早い帰郷を願ってくれたが、忍の請ける仕事、特にいくさ忍の苛烈さは知っている。無駄に引き留める言葉が重荷になることは皆重々承知しており、行かないで欲しいという想いだけはたえて全員が胸のうちに仕舞い込んだ。

 静かに厩を出ると、すこし季節の遅れた緩やかな東風に結い髪が流れる。戦に向かう現実すらも吹き消してはくれないかと、ちらと脳裏を過ぎった考えに何を気弱なと己を叱咤した。

 角を曲がれば、もう日車を植えた垣のそばに出る。さあ、もう夜闇に紛れ、消えるべき時が来た───


『───…若だんな』


 唐突に鼓膜を打ったその声音に、心の臓を思い切り掴まれた気がした。
 瞠目して日車の花壇の方を見遣れば、白い夜着を纏った人の姿が立っている。亡者にしては朧げでなく、夢歩きの病にしては意思を湛えた瞳で、盗人にしてはあまりに憂えたその姿。

『…清八……』

 普段頭に巻いている手拭いも無く、背の中ほどまでの髪を結うこともしていないが、そこに立っていたのは紛れも無く彼だった。

『どうしたんだ、こんな時間にこんなところで?』
『いえ、今夜は俺が厩番なんです。見回ったついでに、こっちまで来てみたんで』
『ああ、そっか。びっくりしたー…』

 胸に手を当てて深呼吸してみせた団蔵に笑って、清八はこちらへ歩いてくる。手にした小さな灯火が、彼の歩みに合わせて揺らめいた。
 立ち止まっていた団蔵の手前まで来て清八も歩みを止め、まだ少し清八の高さには届かない彼の瞳を見つめる。

『───もう、…行ってしまわれるんですね』
『…うん』

 東風が、二人の髪を揺らした。

『…俺、若だんなが植えたひまわりを見に来たんです。結局、花が咲く前に若だんなは発たれてしまうからと思って。そうしたら、本当に若だんながいらっしゃったんで、俺も驚きました』
『あはは、そうなんだ。…ねえ清八』
『はい』
『僕が帰ってきたら、ちゃんと、咲いた花を見られるようにさ。ここの花壇頼むね』
『はい、お任せ下さい! ひまわりはたくさん種が取れますから、今年綺麗に咲けば大丈夫ですよ』
『うん。もし僕の蒔き方が悪くって芽が出なかったりしたら、僕の部屋の物入れに、種が半分残ってるから、また蒔いてやって』
『分かりました』

 そういえば、ここに花を植えたことなど、清八以外の誰にも告げていないな、とふと思った。きっと大輪の花が咲いたときには、皆はとても驚くだろう。

『…、…じゃあ───』

 そろそろ発つ、と視線で告げて、団蔵はふわりと垣に飛び乗った。振り向けば、まだ東の方から射す月光に照らされて互いの顔が見える。
 しばし視線を交わしていれば、強まるのはこの場所を離れがたいという強い想い。それを無理に振り切って踵を返そうとしたそのとき、清八が思い切ったように呼びかけた。

『っ若だんな!』
『…な、なに? 清八』

 出端をくじかれて心持ちつんのめり、団蔵は内心慌てながら垣の上で体勢を保つ。こちらを見上げる清八は、躊躇うように幾度か瞬きをして、それからようやく言葉を続けた。

『───若だんなが帰ってこられるまで、俺が厩番の日は、ずっと明かりを灯しておきますから!』

 一拍置いてから、それが夜明かしを意味することだと思い当たった団蔵は、慌てて首を振った。

『え、そんな、いいよ! それって一晩中起きてるってことだろ? 僕が帰ってくるまで毎回そんなことしてたら、清八が倒れちゃうよ』
『大丈夫ですよ、俺、体力には自信ありますし! それに厩番になる奴は、次の日に配達を担当してない奴でしょう?』
『そ、そりゃそうだけど…』

 体力が資本の馬借業は、他より夜更かしになり、またゆっくりと休めない厩番には、大概次の日の配達を任せない。言い換えれば休日の前の晩は、大体において厩番を担当するということである。
 厩番が徹宵となっても仕事に影響はないと知ってはいたが、自分のためにそんな無理をさせることを渋っていた団蔵は、次の瞬間に響いた 絞り出すような声に、思わず言葉を飲み込んでいた。

『───お願いです』
『え…?』
『…道を見失わないで、帰ってきて下さい。若だんな』

 清八の声は静かだった。だがそれは、ともすれば弾けそうな激情をひたすらに押さえ込んだ結果のような、そんな静けさを持っていた。
 俯いた彼の瞳は、時折吹く風に流される髪に隠れ、垣の上からは見ることが出来ない。

『…せい』
『俺がずっと、明かりを灯しておきますから。あなたの帰る、この場所に。…あなたの進む道がどんなに暗くても、どこかで深い闇の中に入り込んでも、いつか暗い水の底に沈んでも、…帰ってくるときには、今辿った道を思い出して下さい。俺はずっと、あなたを見ています』
『清八───』
『帰ってきて下さい。いつになってもいいんです。…ここに帰ってきて下さい、』

 段々と隠し切れなくなってきた、その声の震え。言葉を聞きながら、団蔵は強く唇を噛み締める。
 夜に浮かぶ清八の姿に、まだ見たことのない太陽の花を重ねて思った。



『───…おれのところに、戻ってきて。』



 ひときわ強く、震える声音が哀願する。
 顔を上げ、月明かりに露わになったその瞳には、ただ純粋で、切迫した願いだけが湛えられていた。

 清八が自分にこんなに必死で何かを頼んだことなど、今までにほとんど無かったように思う。彼はいつも笑顔で、自分に答えてくれるばかりだった。
 そんな彼の願いは、もしかすれば起こり得るかもしれない、再会の無い別れを髣髴とさせた。もしかすれば、もしかすれば、思わぬ偶然が導いた今この瞬間が、図らずも最後の逢瀬となるかもしれないのだ。
 ならば今この垣から飛び降り、強く強くこの腕にその匂いを温もりを存在を想いを刻み付けて、此処を発とうかと。

『…っ…』

 団蔵は眉が寄る程に強く瞑目し、そんな考えを振り払う。




 …違う。
 これは、今生の別れなんかじゃない。

 そんなんじゃない、 ───…だから。





『───…帰ってきたら、一緒に、見ようね。ひまわり』





 精一杯に満面の笑みを浮かべ、少しでも普段の自分らしく、告げた。

 団蔵は、垣の上ですっと立ち上がった。村に背を向け、中よりも大分低くなっている垣の外へひらりと跳躍する。
 走り出した背中に、必ず、と応える声が、聞こえた気がした。



 垣を越え、戦場に向かう二本の足は、それ自体が意思を持っているかのように速度を上げてゆく。

 無くすもの、失くすもの、亡くす者。
 それらを最小限にするために、自分は敢えて終わりの見えないこの戦へと赴くのだ。
 心のうちに舞灯篭の如く浮かんでは沈む家族や仲間たちの笑む姿を、陳腐だと笑いたければ笑うがいい。
 外聞の良さなど、端から望むべくも無いのだから。

 燦々たるほどに輝いていた満月に、いつしか大きな叢雲が掛かり始めた。
 闇が一層濃くなり、光は徐々に消えてゆく。



 おもむろに訪れた忍ぶ者たちの生きる世界で、若きいくさ忍は疾く駆けた。




:::*:::*:::*:::*:::*:::




 久方ぶりに歩く厩のおもてには、かつてと変わらぬ風が吹いていた。
 彼方にある出立の日は、今宵と同じ望月の夜。季節に遅れた東風と、ただ一つの固い契りに見送られ、厩の裏の垣から旅立った。
 徒然と思い返しながら、団蔵は厩の角をゆっくりと曲がる。

 ───果たしてそこに在ったのは、



 幾星霜の間中、いくさ場から焦がれ続けた二つのひまわり。



 初めて眼にした日車の花は、その六尺ほどもあろうかという丈の上に 夜の中にあってもなお鮮やかな黄金の色を誇りながら、星々のあえかな光のなかで美しく咲いていた。陽の下で見れば、まるで夏の祝福を一身に受けたかのように強く雄々しく、そして華々しいのであろうが、夜闇の中で眺めるそれは、鮮やかな色彩を持ちながらもどこか憂えた美しさを纏っているように思える。
 そしてその下に佇み、大きく開いた頭花を見上げている、木蘭色の小袖着流しを纏った姿。

 ややあってから、団蔵は震える手を無理やり持ち上げ、敢えて音を立てて顔布を解いた。
 衣擦れの音にぱっと振り向いた彼の眼が、瞬間大きく見開かれる。


「───…帰ってきたよ。お前のところに」


 何かを言おうとして小さく開かれたその口は、結局何も言えずに止まっている。動くことも出来ずに立ち尽くし、こちらを見つめている姿に向けて、次の瞬間 団蔵は弾かれたように駆け出した。見る間に二人の距離を無に帰して、懐かしいその存在を強く強く抱き締める。
 最後の思い出のためなどではなく、自分と清八が今ここに居るという事実を確かめるために。

「わ…か、だんな…?」

 ようやく言葉を発した彼に、僅かばかり腕を緩めて顔へと視線を向け、団蔵は笑った。

「うん。僕だよ。清八がずっと待っててくれた、僕だ。…戻ってきたよ、この場所に。」

 囁きに、間近にある清八の瞳がすっと潤んだ。知らぬ間に彼を追い越していた身長に離れていた月日を想い、再び強くその体を掻き抱く。ややあって遠慮がちに抱き返してきた腕は、記憶の中のそれよりも幾らか細かった。

「…おかえりなさい、若だんな」
「うん、ただいま」
「よく、…お戻りに」
「…うん。───暗かったよ。あのときからずっと辿ってきた道は、すごく暗くて、深くて、悲しかった。元いた場所も見失いそうになった。…もう戻れないかと思った。何度も」
「若だんな…」
「でも、…清八がずっと、明かりを灯していてくれたから。道を見失わない僕を、待っていてくれたから。僕はここに、戻って来られたんだ」
「…はい」
「……ただいま。───ただいま、清八。」
「───…りなさい…、おかえりなさい、よくご無事で、…若…っ…!」

 涙など滅多に見せなかった清八が、ようやく出迎えの言葉を囁いたものの、終いには堪え切れず声を詰まらせて団蔵の肩に顔を埋めた。それが弱くなった証だとは思わないが、仕方が無いとは言えそこまで追い詰めたのは、戦へ発った自らである。自責に小さく天を仰ぎながらも、これからをかけて償ってゆく決意を胸に置いた。

「ひまわり、ちゃんと育ててくれたんだね。すごく綺麗だ」
「…はい。あの最初に若だんなが植えた年も、ちゃんと咲いたんですよ! 村の衆もとても驚いてました。ようやく若だんなに見て頂けて、嬉しいです」
「僕も、清八と見られて嬉しいよ。…これで、約束を守れたから。向こうでも、ずっとずっと、考えてたんだ」
「…お心に留めて下さって、…ありがとうございます、若だんな」

 互いの腕をそっと解き、白み始めた東の空へと向いた たくさんの日車たちを眺めやる。闇が薄まる空気の中で、彼らの黄金はますます色を増した。
 ふと、清八が団蔵の頬に手を伸べる。数年前には滑らかな皮膚が覆っていた右頬には、刃物によるものだろう大きな向こう傷の古い痕が刻まれていた。

「これは、…いつ頃…」
「ああ、この傷か。…あのとき村を発ってから、半月も経たないうちだよ」

 団蔵は自分でも頬傷に触れて、お揃い、と悪戯っぽく笑った。清八の頬にある小さな十字傷などとは比べ物にならないほどに深かったろう傷であったが、きっとそんなものは気にもならないほど、他にも大きな傷をたくさん身に負って戦ってきたのだろう。
 今度は団蔵が、清八に手を伸ばした。結わいていない栗色の髪は、彼の知っているよりも随分と長く伸びている。

「伸びたね、髪。清八いっつも背中までしか伸ばしてなかったのに、今は腰くらいまであるじゃないか」
「そうですね、…女々しいかもしれませんが、若だんながご無事でいるようにと願掛けをしていたんです。でも若だんなはお帰りになられましたし、もう切っても良いかもしれませんね」

 肩に垂らした髪を指先でつまみ、清八はこちらへと苦笑して見せた。

 流れ過ぎ去った時の証を知って、それぞれが胸に去来する想いを噛み締める。離れている間に、相手にどんなことが起きたのか。知りたいと急く気持ちはあるものの、また会い見えた幸せはそれを凌いでいた。
 積んである木箱を引っ張ってきて、東を向いて座り込む。色づき始めた明け方の空を見ながら、ぽつりぽつりと思い浮かぶままに話をした。

「…、元気だった?」
「はい。俺も、村の皆も、親方も」
「そっか、良かった」
「若だんなは、いかがでしたか?」
「今は全然大丈夫。とりあえず五体満足だし、病も無いし。ちょっと疲れてるけど」
「…お疲れ様でした。───もう、戦は、…終わったんですよね」
「うん。…なんとか、勝ったよ。戦後に壑方と山道の守りも固めてきたから、もう敵方の残党も来られないはずだ。…ねえ、清八」
「はい」
「…ほんとに、厩番の日は夜中じゅうずっと起きててくれたんだね」
「俺がそうしたかったですし、…勝手にですけど、若だんなと約束しましたから」
「ありがとう。…ねえ、僕のいないあいだに、お嫁さん貰った?」
「え、や、…貰ってないです」
「…恋人、出来た?」
「……いいえ」

 冗談で少し意地の悪い質問をすれば、清八は困ったように否を示した。嫁を貰っていたほうが良かったですか、と、少し落ち込み気味の視線を向けてくる。
 そんなわけが無いのだが、団蔵は敢えて曖昧に微笑み、問うた。

「…じゃあ。───…清八、幸せに、なれた?」

 抽象的な質問に、彼は眉を寄せて微かに笑う。

「俺、あんまり頭が回るほうじゃないんで」
「……。…どういう、意味?」

 彼の言わんとする内容が掴めず、団蔵は僅かに考えたが、結局諦めて答えを聞いた。清八はもう一度微笑み、朝焼けの東へと視線を向ける。
 その横顔はまるで、いつか現れる太陽を待つ、金色の花のように。



「…若だんながいない世界で幸せになれる道なんて、俺にはどれだけ考えても分かりませんから。」



 ───刹那に胸のうちへ込み上げる想いは、止め処もなく。
 この気持ちを全て表す手段など、きっと神であっても持っていないだろう。

 山の彼方から顔を覗かせた朝陽が、夜に冷え切った下界をあたたかな猩々緋の色に照らし出した。
 東を見つめて待ち続けた一途な花々は、今ついに姿を見せた日輪の光を受けて、眩しいほどに美しい。
 ひまわりは太陽の下で咲く姿こそが最高に綺麗だ、と頭の片隅で思いながら、団蔵はこみ上げてくる涙を閉じ込めるように強く眼を閉じ、ゆっくりと腕を伸ばして清八の髪に顔を埋めた。
 あたたかく、清潔で、おおらかな。全てを包む、天の陽の匂い。

「───…お前は、太陽の匂いがするね。どうかそのまま、陽の下で笑っていて」

 月からすらも身を隠し、闇に紛れる僕の代わりに。

 夜色の装束にその身を包んだ、影の世界に半身を置く青年の言葉が耳元で囁く。
 それに清八は小さくかぶりを振って、自分の肩口に顔を伏せる団蔵の頭を、優しく撫でた。

「いいえ、あなたは俺の太陽です。」

 穏やかな、それでいて強い確信に満ちた口調に、僅かだけ顔を上げて彼を見遣る。焦がれ続けた太陽の微笑みを受け、今その生命をいっぱいに輝かせ始めた日輪の花を背にして、清八は団蔵を見つめ、目を細めた。



「あなたが笑って下さったら、ほらこんなにも俺は眩しい。」



 そう言って笑んだ姿は、ようやく地平から身を離した朝日に照らされて輝く、ひまわりの如く。

 ───ひまわりが陽の姿で幸せになれるのなら、その微笑みでますます輝くのなら。




 そう思って、若い太陽は、涙混じりの最高の笑顔で 愛しいひまわりへと微笑んだ。