君との別れなんて考えられないほど、きっと執着していた。
降りしきる雨のように君を包み込む優しさなんて持っていないんだ。
そして『自分』自身であることは変えることなんて出来ないから。
ならせめて、僕の持っていない全てを持っているあの人の代わりに。
僕にしか出来ないことをしよう。
何よりも自由であるはずの僕は君に、雨上がりの空に翔んでいく自由をあげる。
雨 の 恵 み
梅雨時の天気予報は狙い違わず、外は全力で雨だった。
「───………」
室内は沈黙、僅かな衣ずれの音は雨音に掻き消される。意味も無いのに動く必要は無く、佐藤成樹は膝を立てて座り込み、腕に顔を埋めていた。
「───………、」
室内にはもう一人が、部屋の主を見つめて佇んでいる。
何かを言おうとしては口を噤み、しかし彼はようやく、決心したように言葉を紡いだ。
「───…シゲ、」
「今な」
半ば遮るような形で発せられた佐藤の声に、水野はとっさに続きを飲み込んだ。
膝に突っ伏したままの佐藤の声はくぐもり、普段の快活な様子は欠片も無い。
「今、考えとったんよ。……なんで、旦那なのかって」
「…っ……」
言外の問いに唇を噛み締め、水野は小さくうつむいた。
『話をしたい。俺とあの人と、お前の関係について。片を付けよう』
そう言って、今日は此処に来た。
普段なら鬱陶しいくらいに何か喋りかけてくる佐藤は、帰り道も、部屋に着いてからも、ただ黙りこくったままで何かを考えているようだった。
しばらくぶりに発した声に自嘲の色を滲ませて、金髪のフリーマンは囚われたような言葉を溢す。
「やっぱり、いろんな経験積んどるからか。真面目で優しいからか。頼りがいがあって、周り受けも良くて、何事にも本気で取り組んで、必ずやり遂げて、結果を出せる奴だからか」
「シゲ、それは───」
「俺には無いモンばっかりや。でももし俺がお前のためにそう在るべきなら、今までの自分を否定せなならん。どないせぇ言うん?」
「……シゲ、違う」
静かな否定に、佐藤はようやく顔を上げる。水野は膝を着き、彼の光の入らない瞳を覗き込んで、寂しげに笑った。
「渋沢さんは、俺と付き合ってくれてるんじゃない。…俺に付き合ってくれてるんだよ」
「何───」
「それでも、───…『諦められない。手放したくない。逃がしたくない。無くしたくない。……離れたく、ない。』……」
絞り出された言葉たちは、ひどく聞き覚えのあるそれ。
次の句を継げなくなった佐藤を真摯に見つめて、水野は囁く。
「お前なら、分かるだろ。分かってくれるだろ、この気持ちがどういうものか」
それは以前、佐藤が水野に告げた言葉と、一言一句違わない台詞だった。
「タツボン、」
「俺にとって、あの時のお前のこの台詞は、…本当に重い意味を持ってた。だから、忘れられなかった。ずっと考えてた」
「───……」
水野はそして一呼吸置き、
───多大な覚悟を抱えて、決定的な言葉を告げた。
「俺はこの台詞、そっくりお前に返したい。───お前が望むような意味とは、…違うけど」
放たれた彼の言葉に、その瞬間 佐藤は自分がひどく傷付いたような、情けない表情になっているであろうことを自覚した。しかしそれ以上に、目の前の水野が今にも泣き出しそうに唇を引き結び、それでも尚自分から視線を反らさないで見つめ続けてくることに、微かに奇妙な満足感をも覚える。
───もう、決めていたのだけれど。
それでも嗚呼、かなしい。
悲しい。
哀しい。
愛しい。
かなしいよ。
ややあってから、佐藤はようやく口の端を引きつらせるようにして小さく笑った。
「………ああ、ズルいなぁ、タツボン」
抱えていた膝を解放し、あぐらを掻いて普段の自分らしい姿勢に戻る。胸に詰まっていた濁りが、少しだけ蒸発したような気がした。
「いっちばんムゴい手札出してくるんやな…そんなん言われたら、俺もう手出し出来んて」
「シゲ…」
無理をしていることが見え透いた明るい口調。しかしその時の佐藤の声音には、演技ではない前向きさが窺えた。
罪悪感から来る痛みに胸中を苛まれ、水野は沈痛な表情で呟く。
「シゲ、…お前、俺のこと、…嫌いになってもいいん───」
「なーに言うとるの。俺は相変わらず、旦那に敵概心燃やすライバルキャラが似合うとるよ」
立ち上がって伸びをし、窓を開け放つ。いつの間にか雨足は遠ざかり、しっとりと濡れた空気を陽光が暖め始めていた。
「───梅雨明けやな。タイムリーに」
「…俺は」
窓際から振り返ると、水野は立ち上がって、少しだけ微笑んだ。
「俺は、自分の好きになった人だから。…シゲにも、好きになって欲しいと思うよ」
「………タツボン…、それどんだけ残酷な台詞か分かっとる?」
「…ああ。……それでも、そう思う。」
しっかりとしたその口調に、迷いは無い。佐藤は笑って、梅雨晴れの空を見上げた。
「そいでこそ、俺の惚れた相手や。よう言うた」
完全な雨季の終わりでは無いだろうが、少なくとも今一時の空は蒼く澄み渡っている。鳥のさえずりが聞こえる外の景色を眺めながら、佐藤は胸中に渦巻いていた嵐が穏やかな波に変わり始めたことを感じた。
「…カタ、付いたな。」
ぽつりとこぼれた言葉に、水野はこくりと頷く。
「うん。───ありがとう、………ごめん。」
「謝ることは無いやろ。俺がただ、タツボンにとってのプラスにはなれなかったっちゅうだけや」
僅かだけ自嘲の混じった台詞は相手への応答ではなく、どちらかと言えば自分に言い聞かせるためのようにも思えた。
ふと気が付くと、水野が傍らにまで歩み寄って来る。意図を問うように彼を見遣るも、水野は蒼弓に視線を向けたまま、ゆっくりと噛み締めるように呟いた。
「シゲは前にさ、『幸せしか知らない人間が、誰かを幸せに出来るはずが無い』って言ったよな。『同じように、不幸しか知らない人間も、誰かを幸せに出来るはずが無い』ってもさ」
「タツボンは俺の台詞、よう覚えとるなー」
確かにいつか、そんなことを言った覚えはある。理由や状況は忘れたが、その時は世界の真理の一つに気付いたような、複雑な気分になったのだった。
水野は空に向けていた眼差しをふと佐藤に戻し、そしてそれから、───彼の慕うあの少年のように優しい笑顔で、言った。
「でも、辛いことばっかり知ってるお前は、……それでも俺を幸せにしてくれたよ。」
───しばらく、言葉は無かった。
空は先程までの様子が嘘だったかのように晴れ渡っている。
部屋の中、水野の肩口に顔を埋める佐藤の背中が、小さく震えていた。
「───……そんだけで、十分や」
「…そっか」
「……お前のこと好きになって、良かった」
「…そっか。」
自分よりも少し背の高い少年の背を、静かに撫でる。彼の肩越しに見える雲一つ無い空に、いつの間にか飛行機雲が尾を引いていた。
「大好きだよ、…俺の、『親友』。」
「………おおきに…」
激しい雨は確かな足跡を残したが、それは降り注ぐ陽光を浴びて、いつの日にか大地を育む糧となるのだろう。
二羽の鳥が今、東と西へ、翔び立った。
「───あれ、水野じゃん! あと佐藤も」
「人をさもオマケみたいに言うなや」
広い広い武蔵森学園のサッカーグラウンド。周囲に張り巡らされたフェンスには、既に夕暮れながら意図も様々な観客がへばりつき、目にするプレイやまたは選手自体に黄色い声を上げたり、メモに何かしら書き付けたりを繰り返している。
ファンと偵察とスカウトと身内と野次馬に彩られた練習場の中、フィールドからベンチに走り込んで息をついた部のエースは、ふと顔を上げると見知った顔を見つけて手を振った。藤代の台詞に茶髪の少年は苦笑して小さく手を振り返し、金髪の少年はびしっと中指をおっ立てる。
対抗して何故か人指し指を突き付ける藤代、それに親指を下に向ける佐藤、更に何故か親指を上に向ける藤代、…とバカ二人(主に黒髪)が指で異世界的会話を交わすのを無視して笠井が水野に話し掛けた。
「やあ。偵察?」
「ああ」
「それにしちゃ微妙な時間に来たねー」
「………」
練習メニューは既にそのほとんどを終え、先程までのミニゲームと挨拶を終えた今は最後の短距離ダッシュを各自でこなし始めている。
訳知り顔で笑う笠井の表情に 微かに視線を泳がせ、水野は沈黙で返した。
「…あ、キャプテン!」
と、未だ佐藤と謎のハンドジェスチャー合戦を繰り広げていた藤代が、意図してなのか偶然か 丁度そのとき立てていた小指で、ベンチにやって来た人影をずびしと指し示す。一足先に上がっていた三上が丸めたタオルを投げ付けると、風に乗って不規則な軌道を描くそれを、渋沢は難無く片手でキャッチした。
「悪いな三上」
礼を言って軽く顔を拭い、背の高い彼はふとこちらを見遣る。フェンス越しにぎゃあぎゃあと始まっている佐藤と藤代の小競り合いを意外そうに眺め、そしてその傍で二人を止めるでもなく渋沢を見ている水野に目を瞬いた。
「上等じゃ こんホクロォォ!! 単なる偵察でなくて威力偵察に変更したるわ!! タツボン石拾え石!!」
「サッカーに威力偵察して何が分かるんだよ!」
「何をう、こっちだって負けてなるものか! タク、靴脱げ靴!!」
「いや俺を巻き込むなよ! てか何、靴投げる気か!? 俺フツーにスパイクなんだけど!!」
「テメーらうっせーんだよ!! なんかもっと別のモンで勝負しろ!!」
辟易した三上が怒鳴ると、藤代は思い付いたようにぽんと手を打ってフェンスの出入り口へ向かう。
「キャプテン、今日もう上がっていいんですよね?」
「ああ」
振り向いて渋沢に確認を取ると、藤代はスポーツバッグを肩に掛けて扉を開け、佐藤にウィンクしてみせた。
「なあ、これからカラオケ行こうぜ! 存っ分に勝負しちゃる!!」
「お、カラオケの帝王シゲさんに向かって無謀な挑戦やな…良かろう、ジジイ仕込みの中島みゆきで叩き潰したるで!!」
「あ、カラオケなら俺も行きたいなぁ」
「よっし、ってことは三上先輩も決定ッスね!」
「なんでだ!!」
「え、来ないんスか? タク来るのに?」
「……………行く」
割と乗り気な笠井と苦虫を噛み潰したような表情の三上を急き立てて、藤代は佐藤の背を押した。
佐藤は水野を振り返ると、
「…んじゃまあそういうことで、俺はこのへんでな」
「あ、ああ、分かった。また明日な」
「おう、また明日!」
藤代を真似てウィンクを飛ばし、彼はフェンスに背を向け歩き出した。
「………、」
四人の声が遠ざかる中、水野は立ち尽くしたまま渋沢を見る。チームメイトを見送っていた彼はその視線に気付き、微笑んで少年を手招いた。
「ちょっといいかな」
「は、はい」
水野がフェンス戸を押してコートに足を踏み入れると、隣に座るように促される。少々まごつきながらも腰を下ろすと、渋沢は穏やかな空気を纏ったまま、遠慮がちに問うた。
「───佐藤と、何かあったのかい」
「……え、と」
「俺の勘違いなら良いんだが、なんだか普段と空気が違うような気がしたんだ。藤代たちも、何か感付いて佐藤を連れ出したみたいだし」
武蔵森の面々は、何れも聡い者ばかりのようだ。
水野はしばし沈黙したのち、たどたどしくも自分なりの説明を始めた。
大体のあらましを語り終えると、彼はいたたまれなくなって僅かにうつむいた。渋沢は何を思ったのか、未だ言葉は無い。
「…ぇっと、俺、……本当に、あなたに本気で。でも、…シゲは、別の意味ですごく…大切なんです。だから、こういうことがあっても、…無くしたくなかったから、それで」
「───…水野」
言葉が上手く纏まらなかった。
それでも浮かんでくる思いを掻き集めて声にしようと試みていると、渋沢は小さく名を呼んでそれを遮る。
言葉を切って彼を見上げると、渋沢は柔らかい動作で水野の頭に手を置いた。
「…俺は、水野がすごく無器用なんだってことを知ってる。本当は人付き合いが苦手なのも知ってるし、口下手なのも知ってる。…だから、今の話を聞いて、心から思ったよ」
渋沢の笑顔はいつも優しい。
しかしそれが常に誰かを支えてくれるのは、彼のそれは決して、作られたものではないから。
「頑張ったな、水野。」
温かな笑顔で頭を撫でられて、心が震えた。
胸の奥底に後から後から溢れ出る想いは、堪えきれない程。
俺は、この人が、好きなんだ。
「なー佐藤、水野とお前、なんかあったのか?」
「バッ、お前ちょっ…」
なんでもないことのように佐藤へ問いを発した藤代を、三上が慌てて遮ろうとする。切羽詰っていないときは意外に細やかな気配りを見せる三上に苦笑して、佐藤は晴れた空を見上げた。
蒼穹にまた、飛行機雲が横切っていく。
「せやな…まあ、なんかあったっちゃあったわなぁ」
「そっかー」
それだけ言って、藤代はたっと小走りに駆け出した。後ろを歩いていた笠井が軽く慌ててその背を追う。
「あっコラ誠二、待てって!」
本気で走ってはいない藤代とその後をぱたぱたと着いていく笠井を見送り、佐藤と三上は顔を見合わせてから、佐藤は苦笑、三上は嘆息してそれぞれに走り出した。
グラウンド沿いに伸びる土手を、四人の影が重なりながら駆けていく。
「なー藤代──っ!!」
「なーに──っ!?」
「お前それ以上聞かへんの──っ!?」
「あー、いーわ──っ!!」
「なして──っ!?」
「だってさ──っ!!」
叫びながらスピードを上げると、佐藤は笠井を追い越して藤代の背中が見える位置にまでやってきた。
暴れるスポーツバッグを抑えながら走る藤代は、佐藤の言葉に振り返って叫び返す。
「お前、いま前向いてんじゃんか───っ!!」
一陣の風に土手の草が舞い、───近くの梢から鳥が飛び立った。
アイツの言うことは毎度毎度意味分からんと眉を寄せる三上の台詞が聞こえたが、それでも佐藤は、大声で笑った。
羽ばたき、高く高く飛んで行くその鳥を送り出すように。
「……ああ、せやな、タツボン…」
「なーに──っ!?」
「ああ、せやな藤代──っ!! おおきに──っ!!」
「なんで礼言われるか分かんないけど、どういたしまして──っ!!」
旅立つ鳥を乗せて、今おおらかな風が吹く。
「オラそこの体力バカども少しは止まれ──っ!!」
「三上先輩のオヤジ──っ!!」
「ンだとコラ藤代──っ!!」
「ちょっと、そろそろコレ速すぎ──っ!!」
挑発されてスピードを上げた三上にノって、藤代もぎゃーぎゃー騒ぎながら更に足を速める。悲鳴をあげながらもなんとか着いていく笠井の肩を叩いて笑いかけ、佐藤は一気にトップスピードで先頭に躍り出た。
「行くでお前ら、俺は、風になるんや───っ!!」
「古いぞ佐藤──っ!!」
君を包むあたたかな雨にはなれなかった。
けれどそれなら、僕は君を運ぶ自由な風になろう。
どこまでもどこまでも羽ばたいていくんだ。
見守るから。
見送るから。
僕は君に、自由をあげる。
夕暮れのグラウンドは、まだ昨日の雨を含んで湿り気を帯びている。
背の高い少年が、悪戯っぽい表情で隣の少年に何かを囁いた。茶髪の彼は驚いたように目を瞬いた後、泣きそうな笑顔を浮かべる。
グラウンドの片隅に咲いた 風に揺れる名も無い花が、何時しか雨を含み実を結ぼうとしていた。
真冬とのメール最中に時折勃発するミッドナイト小説交換なる謎企画にて真冬のリクエストを受け執筆した作品です。携帯で。そして企画勃発すると二人とも次の日寝不足(バカ)少々加筆修正してあります。
リクエスト内容は『渋沢×水野←シゲで、シゲが渋沢に敵愾心バリバリだけど最後は渋水ハッピーエンド』というものでした。
…ワタシに渋水を書けとNa!?(素で吹いた)
しかも私はこう、この二人と決めたらテコでも動かないタイプだったので、片思いとか三角関係とか叶わない恋の話を書いたことが無かったのですよ。
というわけで自分が納得いくような恋破れる物語を作ろうと試行錯誤した結果、このようになりました。意外と気に入っているというかなんというか、しかし藤代とシゲのコンビ好きだな私…(カプでなくコンビ)そういえば江戸パラレルでもコンビ組ませてた(笑)
ご拝読ありがとうございました! 感想などございましたらよろしければ。