誰もが通るであろう、道。

 自分がたった一人だけで歩かなければいけないと思い込み、悩み、苦しむ道。

 かつての自分も辿った、───暗い道。


道の終わり





 ナショナルトレセン、地域対抗トーナメント準決勝戦後───夜。

 昼間は穏やかな陽光に覆われていたJヴィレッジのグラウンドも、消灯前の僅かな自由時間ともなれば既に闇に塗りつぶされ薄闇に輪郭を浮き立たせるばかりとなっていた。先程まで自主練習をする選手のためコート脇の照明灯も光を発していたが、既に就寝時間も間近な今となっては、煌々と照っているのは宿舎の生活灯くらいである。
地域、そしてポジションごとに割り当てられた各宿泊部屋からは、同室の少年達が談笑する声が響いていた。

 そのうちの一室、東京選抜GK陣のため用意された部屋。彼らに割り当てられたのは、他よりも僅かに狭い小部屋一つであった。しかしそもそもの人数が少ないポジションなので、人口密度で言えば逆に広くも感じられる。そして夜も更けた現在この室内にいるのは、東京選抜正GK、渋沢克朗その人のみであった。


 今年度のナショナルトレセンにおいての彼の同室者は、他に二人いる。
 一人は東京選抜GKコーチの、マルコ=フェルディナンド=ルイス。彼はコーチ陣の打ち合わせで現在はミーティングルームにいる。恐らくは西園寺や松下、榊らと夜半まで顔をつき合わせて話し込んでいるのだろう。
 そしてもう一人は、東京選抜セカンドキーパーである不破大地である。彼はソウル選抜との親善試合で負傷し長期離脱を余儀なくされた小堤健太郎の代理として東京選抜に入ってきたのだった。

 渋沢が戻ってきたとき、普段とは違い珍しく不破は部屋にいなかった。消灯まで間もないこの時間に、どこに行っているのだろうか。

(藤代たちのところにいるって可能性は無いだろうし…まさか今更迷ったなんてこともないだろう。…風呂? …の時間はもう終わったし…)

 実際今まで渋沢も暇を持て余した藤代らに捕まり、303号室でのゲームやら何やらに参加させられていたのを適当なところで切り上げ戻ってきたのだ。不破はその場にいなかったし(さすがに室内に居れば分からないはずはない)、入浴時間はとうに過ぎている。トイレに行ったのかとも思ったが、渋沢が部屋に戻ってから既に30分以上は経過していた。もう点呼まであまりない。
 合宿開始時から時間には正確無比だった不破がこの時間まで部屋に戻ってこないというのは、なんだか普通ではないことのような気がして渋沢は落ち着かなかった。
 それに渋沢が不破のことを気にかけていたのは何もつい先程からというわけではなく、今日の試合後からのことである。


 ナショナルトレセン、選抜合宿四日目。今日は合宿のまとめとして行われる各地域対抗のトーナメント試合、その準決勝だった。前日関東選抜と東北選抜を下し準決勝までのし上がった東京選抜は、今日の準決勝で対戦した九州選抜をも倒して決勝進出を決めた。
 そして準決勝で東京の守護神を務めたのは、正GKであり主将の渋沢ではなく、セカンドキーパーの不破だったのである。大型選手揃いで体力も半端ではなく、技術もありスピードも並以上という死角のない九州選抜を相手に、彼は二度しかゴールを割ることを許さない健闘ぶりを見せたのだった。
 だがしかし試合終了のホイッスルが鳴ったあと、コート中央での挨拶前に渋沢が駆け寄った際。何故だかその顔には、いつもの無表情の中に気落ちしているかのような翳りが見えたのだった。それに気付いて口を開きかけたところに九州選抜のGK功刀が声をかけてきて、結局は今までそのことを本人と話せずにいる。

(もしかして、そのことで何か──…)

 不破の性格から考えると、どこかで考察に没頭し時間を忘れているということも有り得るかもしれない。
 渋沢は、僅かに逡巡したのちにジャージの上着を掴み部屋のドアを開けた。


:::*:::*:::*:::



 昼間 東京と九州が激闘を繰り広げたサッカーコート。その宿舎側のゴールポストに背を預けるようにして、探し人は居た。
 山中の冷えた夜気に身を縮めながら宿舎から出てきた渋沢は、眼が明るさに慣れていたせいで黒の上下を纏い闇に溶けるかの如く立つ彼の姿を危うく見落としそうになる。

(やっぱり此処か…)

 部屋を出る際不破の居そうな場所が幾つか脳裏を過ぎったのだが、その中で一番可能性が高いと思われたのが此処、今日の試合が行われたコートだった。念のため外に出るルートの途中、不破の居そうな場所をちょこちょこ覗きながら歩いてきたのだが、やはり渋沢の読みは正しかったようだ。

 宿舎の灯りを頼りに簡単な石段を下りグラウンドに降り立った渋沢は、暗がりの中で微動だにせず独りコートを見据える少年に近づく。位置的には不破の斜め前になるが、彼は自分に向かってくる渋沢に気付いているのかいないのか、依然として試合場から眼を離さなかった。かなり間近まで歩み寄っても、その視線は微塵も揺るがない。天然芝を踏みしめる音にすら、不破は反応しなかった。

「…不破くん」
「───っ!?」

 隣と呼べる程にすぐ傍まで近寄り、彼の名を呼んで軽く肩を叩く。
 瞬間、はっと息を呑み振り向いた不破の一瞬の表情に、渋沢は微かな驚きを禁じ得なかった。

 昼間の試合終了後に見た、あの落ち込んだような、頼りなげで翳った表情。それがあの時よりひどく顕著に現われた、例えるなら───今にも泣き出しそうな自分を、必死に抑えている子供のような。そんな、普段の彼とは正反対の表情を、振り向いた瞬間に不破は一瞬だけ垣間見せた。

 だが、渋沢の僅かな驚愕も数秒のことで、しっかりと視線を合わせた不破はいつもどおりの無表情で表情筋を固めていた。

「───渋沢か。どうした」
「どうしたっていうか…もう消灯が近いから。探しに来たんだ」
「…もうそんな時間なのか。手間を掛けさせたな」
「いや、それは構わないが… ───とにかく、まず部屋に戻ろう。点呼のこともあるけど、風呂に入った後でこんなところに立っていたら風邪を引いてしまうよ。いつからここにいたんだ?」

 問いながら、渋沢は脇に抱えてきた自分の予備ジャージを不破に手渡し着るように促した。山地の夜は半端でなく冷え込む。夏でもその夜気は長袖が恋しくなる程なのだ、増してや春が近いとは言え未だ冬の香も色濃いこの季節では、外気の冷たさは並大抵ではない。
 そんな中での不破の出で立ちと言えば、下にジャージを穿いているのはまだいいが、上は持参したらしい長袖のシャツのみだった。生地が薄いわけではないようだったが、襟元がV字に切れ込んでいて如何にも寒々しい。本人も、先程渋沢に気付いた際からは自分が凍えていることにも気付いたらしく身震いしていた。
 不破は大人しくジャージの上着を受け取り袖を通しながら、渋沢と連れ立って温かな灯りのともる宿舎に向かって歩き出す。

「…夕食の直後から、だったか」
「え?」

 ぽつりと不破の零した言葉に、渋沢は一瞬面食らう。

「あそこに立っていた」
「…夕食の直後ってことは…二時間近くここに立ってたのか!?」
「そうなるな」

 なんと彼は、入浴後夕食を摂ったのちずっとこの場所に居たというのだ。渋沢が藤代らに付き合っていたときも、不破はこのゴールの傍で立ち続けていたということになる。

「……、なんでまたそんな?」

 ようやくグラウンドから建物の中に戻り、暖められた空気に包まれて一息つく。後ろ手に戸を閉めながら、渋沢はもっともな問いを発した。

「……、」

 しかし、不破が口を開きかけた瞬間、宿舎の各場所に取り付けられたスピーカーが単調なメロディを流し始めた。
 点呼開始の合図である。

「む。点呼か」
「っまずっ…! 不破くん、早く!」

 GK二人は問答もそこそこに、自分達に与えられた宿泊部屋へと駆け戻る。廊下は二人以外にも、他の部屋でチームメイトと過ごしていたらしい数名が、自室へ戻ろうと慌しく移動していた。
 二人の部屋は、東京選抜に割り当てられたフロアの一番端に位置している。壁越しの喧騒が少ないぶん恵まれているのだろうが、こういう時は階段から遠いその部屋が恨めしく思えた。



:::*:::*:::*:::



 結局、渋沢と不破の部屋には二人がばたばたと部屋に滑り込んだ直後に点呼が回ってきたので、GK組はなんとか事なきを得た。例え合宿最後とは言え締めのトーナメント戦の間に注意をもらっては、後々にもよくない影響を及ぼすだろう。

「───じゃあ、消灯の時間よ。お休みなさい、明日に備えてね」
「はい、お疲れ様でした」

 点呼兼見回りに来た西園寺は室内に割り当て選手が二人ともいることを確認すると、名簿に簡単な印を付けた後に顔を上げて微笑み部屋を出ていこうとする。その背中に、ふと渋沢が声を掛けた。

「あ、監督!」
「はい?」
「マルココーチは、いつ戻られるんですか?」

 これまでこの部屋に点呼と見回りに来るのは、自身もこの部屋に宿泊しているマルコであった。GKの部屋を最後に訪れ、確認が終わると名簿を持って行き、すぐに戻ってきて選手二人と同時刻くらいに就寝、というのが常套パターンなのだ。
 だが、今日は練習以来彼の姿を見ていない。

「ああ、彼はこれから会議よ。私もだけど、トーナメントの決勝戦について話し合いがあるの。───結構かかると思うから、先に寝てなさいね」
「分かりました」

 渋沢が頷くと女監督はにこりと微笑み、そのまま部屋を出ていった。



:::*:::*:::*:::



扉が閉まる音の僅かな残響が消えると、何とはなしに沈黙が部屋に満ちる。

「……」
「……」

 意図したものではなくとも双方が言葉を発しないタイミングというのはあるもので、そういう場合は少々気まずい雰囲気が漂うものだ。
 例に違わず、部屋に残された二人は──少なくとも渋沢は──訪れた微妙な沈黙に僅かな狼狽を見せた。
 ベッドに腰掛けた不破と、サイドテーブルの傍に立ったままの渋沢の視線がぶつかる。

 そして、沈黙が重なってしまった場合。多くは双方がその気まずさを解消しようと、一番身近な話題を咄嗟に持ち出す。
 ───即ち、

『っさっきのことだが───』

 …声が思いっきり重なる。

 見事なほど異口同音に同じタイミングで言葉を発した彼らは、同じタイミングではっと口をつぐんだ。
 そしてこの場合、

『───そっちが先に』

 …大体は譲り合う声も重なるものである。

 一対一でこの現象が起きたときはどちらかがタイミングをずらして話し出さないと、延々と声が重なるか、居心地の悪い沈黙が続くかになってしまう。

「…ああもう、ちょっと待ってくれ」

 今回の場合は渋沢がなんとかその役目を果たし、これ以上の二重奏を事前に防ぐことに成功した。
 自分も含め二人の台詞を遮って、彼は肩を竦めて苦笑する。

「なんだか変だな…」
「仕方ない。よくあることだ」
「まあ、確かにそうだが」

 不破の言葉に同意しつつ、渋沢はジャージの上着を脱いだ。冷え込んだ外ならいざ知らず、暖房の効いた室内でそれは必要ない。

「もう寝られるのか? トイレとかくらいなら、まだ間に合うと思うけど」
「ああ、大丈夫だ」

 消灯を告げられ、出来ることも残り僅かとなった。それでも簡単に荷物を纏め、寝巻き代わりのシャツに着替え終われば敢えてすることもない。

 渋沢たちに割り当てられたこの部屋は、他より幾分狭いぶんだけ、他の部屋とは違いベッドの配置が横一列になっている。窓際から三つのベッドが、入り口側まで横向きで並んでいるのだ。移動や呼び出しの多い者を扉側に置くという順序で決めたベッドは、窓際から不破、渋沢、マルコの順になっている。


 ベッドに掛けられた布団を捲り、そこに身体を差し入れて寝るために布をいじっていると、図ったように部屋の電気が消えた。消灯時刻になったらしい。
 渋沢はとりあえず突然の暗闇を和らげるため、自分と不破のベッドの間にあるサイドテーブルの灯りを点けようと手を伸ばした。


 が、そのとき。


「…え?」

 闇の中、手探りで見つけた電灯のスイッチに伸ばした渋沢の指に、ふと温かい感触が重なった。それは彼の手のひらを包むように、ゆっくりとその手を押し戻す。

「………不、破、…くん?」

 明らかに不破の手が触れている自らの手を引っ込めることもなく、渋沢は微かに驚いて彼の名を呟いた。

「どうし───」
「…灯りを」
「え?」
「───灯りを点けないでくれないか」

 耳朶を打つ低い囁きに、渋沢は僅かに眉をひそめる。
 その台詞は普段の不破らしからぬ、───震える声音で発せられた。


 闇の中眼を凝らせば、彼はまだ布団に入っていなかった。ベッドサイドに腰掛けたまま、電灯に手を伸ばして渋沢の手を押し留めるように自分の手を重ねている。

「……不破くん」

 不破が普段と違うのは、声の調子だけではなかった。触れた指先すらも、痙攣にも似た小刻みな震えを伝えてくる。


 先程西園寺が言っていたとおり、GKコーチが戻ってくる気配はない。
 渋沢は一旦手を引っ込めて布団をどけ、丁度不破に向かい合うように自分もベッドサイドに座りなおした。

「───何か、あったのか?」

 静かに問うた渋沢には、不破の表情は闇に紛れて分からなかった。



:::*:::*:::*:::



 淡い月光のみが光源となる夜闇に包まれた部屋の中、互いの表情すらも分からないままに二人は向き合って座っていた。
 問いを発した渋沢は、急かすようなことはせずただ沈黙を保って待ち続ける。

 かなりの間を置いて、不破がようやく唇に言葉を乗せた。

「───今日の、…試合で」
「……うん」

 余計なことは言わずに、ただ相槌だけを打って渋沢は不破の話に耳を傾ける。
 歯切れ悪く言葉を零す彼は、普段の硬質で鋭利な印象とはあまりにかけ離れていた。

「…後半戦」

 今日行われた各地域対抗トーナメント試合、準決勝。東京選抜VS九州選抜。前半は双方とも相手の得点を許さずスコアは0−0のまま後半へと移った。その鬱憤を晴らすようにというわけではないだろうが、東京が偶然(としか言いようがない)で一点を入れたのを皮切りに、激しい試合が展開されたのだった。

「───鳴海が、レッドカードを貰った」
「…そうだな」

 そしてその際、東京選抜の大型FW鳴海がファールでレッドカードを喰らい、退場させられたのである。一点差をつけられていた東京側には、かなりの痛手だった。

 不破はぽつぽつと呟くように喋っていたが、なんとか考えを言葉に纏められてきたようである。段々と、語り口が普段に近くなってきた。

「…鳴海が高山に対してかけたチャージは、確かにイエローレベルのものだった。だがそこにレッドを出されたのは、試合を通しての素行の問題だったようだ。九州選抜の高山に対し不必要なちょっかいをかける行動が主審の眼に余るものだったのだろう」
「ああ」

 ベンチから見ていた渋沢も、試合中鳴海が何かと高山に難癖をつけていたらしいことは知っている。さすがに会話は聞こえないので、理由は分からなかったが。

「…風祭から聞いたのだが、高山はバスケットからサッカーに転向したらしい」
「そうみたいだな」

 傍から見ていればハイボールを手で止めようとしたりと危なっかしいことこの上なかった高山が、バスケ出身というのも分かる気がする。

「鳴海は、高山が自身の卓越した身体能力に絶対の自信を持ち、サッカーでもそれで通用すると考えているふしがあることに怒りを覚えていたようだ。だからと言って高山にちょっかいをかけて良い理由はないが」
「…ああ、成る程」

 どうやら鳴海がやたらと高山に反発していたのは、それが理由のようだ。
 他選抜の面々もそうだとは思うが、渋沢の見てきた限り東京選抜はサッカーが好きでたまらないという少年達ばかりである。かく言う渋沢もその一人だが、それ故に鳴海の気持ちもよく分かった。
 だが、そのことと不破の尋常でない様子に関係があるのだろうか?

 不破は一旦そこで言葉を切った。そして僅かに間を置いた後、

「───だが、だ。」

 一言、呟く。

「鳴海がイエローを覚悟でファールに行った一番の理由は、三点目を入れられては東京選抜の逆転がかなり難しくなるからだ」
「───そう、だな」

 2−1の局面、あそこで追加点を入れられては東京選抜の勝ち目はほとんど無くなっていたと言っていい。そういう意味ではあの時の鳴海のチャージは必要だったとも言えるが、誤算は彼の振る舞いを審判が予想以上に気にしていたことである。

 渋沢の同意に、不破は表情は分からないまでもこくりと頷いたのが分かった。

「それはつまり───」

 そして彼は僅かに硬度を増した声で、


「先に二点を取られた、…俺の失策が原因に他ならない」


 ───はっきりと、告げた。



:::*:::*:::*:::



 表情すら読めない闇の中でも、眼が慣れてくればある程度は視界が利くようになるものである。
 ものの輪郭を捉えられるくらいには利くようになってきた視線を改めて不破に向ければ、今まで表情の分からなかった彼は伏し目がちに唇を噛み締めていた。


 後半にラッキーパンチで一点を取ったはいいが、それが逆に九州勢に火をつけた。点を取り返そうと押し寄せる怒涛の攻撃に、不破が後半 続けざまに二失点を許してしまったことは事実である。

「───それは、不破くんは鳴海のレッドの責任が自分にあると思ってるってことか?」

 しばし逡巡した後、渋沢は躊躇いがちに問いかけた。不破はその問いに、俯いて黙したまま答えない。
 その姿に渋沢は僅かに視線を彷徨わせ、ややあってから再度口を開いた。

「…もしも不破くんがそう思っているのなら、それは違うと思う。相手チームの得点を防ぐのは当然だし、その結果カードを貰うなんてことは普通にあることだろう? それでもこういう場合に貰ったカードの責任がGKにあるというのなら、得点を防ぐためにカードを貰ってしまったらそれは全てGKが悪いってことになるじゃないか。そんなのはおかしいよな」
「───…だが、…全てとは言わないが、責任の一端が俺にあるのは事実だろう」

 口篭りつつ、不破がぽそぽそと呟く。そして僅かに目線を上げた彼の発した言葉に、渋沢ははっと息を呑んだ。


「───もしもお前が対九州戦でGKをやっていたなら、鳴海がレッドをもらうことも無かっただろう」

 自分ではなく、渋沢が出ればこんなことにはならなかっただろうと。


「…別に、卑屈になっているわけではない。実戦経験の差や実力から考えれば自ずと分かることだ」

 渋沢の視線を意識したのか、事実であろうとも言い訳じみたことを呟く不破を、渋沢はなんとも言えない気持ちで見つめていた。


 この態度、考え方、行動。一挙手一投足が普段の彼とは限りなくかけ離れて、痛々しいほどに頼りない。優しい言葉をかけて欲しがっているわけではないが、もしもいま強く触れたら、容易く折れてしまいそうだった。

 考えてみれば、ナショナルトレセントーナメントの準決勝で試合に起用される程の才能を有してはいるが、まだ不破はサッカーを知って一年にも満たないのだ。並大抵では無いであろうそのプレッシャーを想像し、渋沢は沈痛な面持ちで唇を噛んだ。

 ふと、思い出す。
 今でこそ中学サッカー界最強の守護神などと謳われてはいるが、自分にだってこんな時期があったのだ。



 サッカーを始めたばかりだったころ。

 目の前のボールと背後のゴールだけしか、見えなかったころ。



 気づけば、口が自然に言葉を紡いでいた。

「…不破くん。───俺の、…昔の話を聞いてくれるかな」
「……、?」



:::*:::*:::*:::



 二人それぞれベッドサイドに腰掛けて向かい合った体勢で、変わらず月光だけが朧に差し込む暗がりに、ゆっくりとした渋沢の声が響く。

「──…俺が、サッカーを始めたばかりの頃のことなんだが」

 何とはなしに相手の様子を伺えば、不破は渋沢の話に黙ったまま耳を傾けている。目の前の彼を意識するわけではないが、一人苦笑して渋沢は続けた。

「───昔、レッドカードをもらったことがあるんだ」
「!」

 瞬間、不破の眼が僅かに見開かれる。

「本当に初心者だったころ、…まだとても小さかったころ」

 話しながら、渋沢は自分でもまたその情景を心中に思い描いた。記憶に綴じた昔を紐解いていけば、ところどころぼやけつつも未だ鮮やかなあの時が蘇る。



:::*:::*:::*:::



 サッカーを始めたばかりの頃のことだった。
 当時から渋沢がGKを務めていた地域のジュニアサッカーチームは、選手たちは幼いながらも厳正なルールに基づき、草サッカーとは一線を画した体制での指導の下本格的なサッカーを教えている。当然、定期的に行われている他地域とのチーム対抗試合にも正規のルールが適用されていた。

「あの時は…なんだったかな、確か月一でやっていたトーナメント形式の試合だった気がする。当たったのが当時かなり強いチームでね──…」

 初戦の対戦相手は、ジュニアではかなり名の知れたチームだった。それに対し、渋沢が所属していたのは弱くは無いが突出した強さを持つわけでもないチームで、正直勝ち目は薄かった。
 事実、前半はかなり善戦して同点に押さえつつも、後半が始まってすぐに点差をつけられてしまったのである。時間がぎりぎりで一点リードを許しているところに更に追加で入れられそうになり、しかも渋沢のチームのDFが相手チームのとあるFWに全員抜かれてしまったのだった。

「みんなもう、絶望に近い表情をしていた。…でも、俺だけがしつこく粘っててね。これを入れさせたらおしまいだ、みたいに思っていたんだ」
「───気負い、か?」
「…そうだね」
「お前らしくもない」
「まだ、小さかった頃だからな。───皆に諦めるなって怒鳴って、なんとか突っ込んでくるFWを止めようとした。それでもドリブルでかわされてしまって、焦って止めようとした俺は…そのFWを手で倒してしまったんだ。典型的なレッドをもらうパターンだな」

 その時は渋沢の代わりにDFと交代で控えのGKが入り、なんとかPKはセーブすることが出来たのだが。

「だが、俺は初めて一発退場にされて…とても落ち込んでね」

 初めて貰ってしまった、フィールドに存在することを許されない証。
 見つめる赤い札は薄っぺらくて、ひ弱で、力を込めればすぐにくしゃくしゃになってしまうようなプレートなのに、それは自分を強く縛り付ける。
 胸のうちが突然鉛の如く重くなり、痙攣のように震える拳を握り締めたままぼやけた視界で試合の続きを見つめる時間はひたすらに冷たく感じられた。

「俺が…俺が、チームの負けを決めてしまった。…そう、思ったよ。───でも」
「…でも?」

 なんと渋沢の抜けたチームは、窮地から一点を返し延長戦に持ち込んで、ついにその試合に勝利したのだった。
 その時の想いは、今でも鮮明に覚えている。嬉しさよりも、ただその勝利を信じられない気持ちが強かった。

「ただただ驚いて、見つめていたよ。───それで、そのときのコーチが試合終了後にチームの皆を集めて聞いたんだ。最後に君達を奮い立たせたものは何か、って。そうしたら──…」
「?」
「…皆、声を揃えて言ったんだ」


『───…渋沢の取ってくれた(・・・)、レッドカードです…───』


「……!」


 汗に濡れた額を拭い、渋沢の肩を抱いて彼らは言った。

『お前があそこであのFWを止めてなかったら、延長戦も何も無かったんだ』

 フィールドを去りながらもお前は希望を残していってくれたのだと、チームメイトたちは力強く笑ってくれた。
 渋沢の脳裏で、あの時何も言えずにいた自分に、監督が満足げに笑って囁く。

『あいつらも実際は、守護神が一発退場になって覚悟が決まったんだろうよ』


「…そう言えば、あのとき初めて守護神と呼ばれたんだっけな…」



:::*:::*:::*:::



 あらかたを話し終えて、ふと渋沢は息を吐く。不破は何を思っているのか知れない常の無表情で、こちらをじっと見据えていた。

 聡い彼のことだ、何故こんな話をしたのかは薄々分かっているだろう。
 だが、不破は待っている。続くであろう渋沢の言葉を、待っている。

「───…俺はね、君を慰めているわけではないんだ」

 渋沢はしばし間を置いたのち、僅かに眼を眇めて言葉を紡いだ。
 それを、不破はただ黙して聞いている。

「誰だってミスをしたなら落ち込むし、落ち込めば誰かが慰めてくれるべきだ。でも、」

 ───慰め、ではない。況や同情でも有り得ない。
 戦うために立つ者として、今それらは仲間への言葉に相応しくない。

「君は落ち込むべきじゃない。だって──…」

 普段浮かべるリーダーとしての笑みとは違う、自然に零れる微笑。夜闇の中では相手に見えないだろうが、雰囲気は伝わっているだろう。渋沢は敢えてそれを隠すこともなく、不破を見つめた。


「───君は何も、間違っちゃいないから」


 彼はその視線を受け止めつつも、僅かばかりの惑いを見せる。

「…だが…」
「不破くんは、まだサッカーを始めたばかりだったな」

 言いかけた不破の台詞を遮るように、渋沢は言葉を続ける。口をつぐんだ不破から眼を離し、ベッドについた後ろ手に体重を預けるようにして、薄闇が覆う天井に視線を投げた。

「…さっきも言ったけど、今の話は俺がサッカーを始めて間もない頃のことなんだ」

 今の自分とは、何もかもが違う。
 同じなのは、サッカーを好きだという気持ちだけ。
 好きだからこそ、どうしていいのか分からなかった。分からないからこそ、闇雲に自分にやらなければならないことを見つけ出そうとした。それを全うしようとしたからこそ、───苦しんだ。

「君は、あの頃の俺と同じなんだな。…背負う重圧は比較にならないけれど」

 誰もが通るであろう、道。
 自分がたった一人だけで歩かなければいけないと思い込み、悩み、苦しむ道。
 かつての自分も辿った、暗い道。
 そこに今、不破はいるのだろう。

 だが、道の終わりは唐突に訪れる。


 すぐ隣を歩く、仲間の存在に気付いたときに。



「気付いたら、その瞬間…暗くて細い道が、光の射す広いフィールドに変わるんだ。───でも、その果てしない広さは自分だけじゃ走りきれない。皆で走るから、果てが見えるんだ」

 暗い部屋の中で語る、光の世界。
 光源と呼べるようなものは窓の外、遥か高みから射す月光だけだったが、不破は眩しそうに眼を細めた。

「───…俺にも、いつかその光が見えるだろうか……」

 幾ばくかの沈黙の後ぽつりと漏らされた、呟きとも取れる縋るような問い。

 渋沢は、サイドテーブルの灯りをともした。

「───っ!」
「…もう、君には見えるはずだよ」

 暗い闇を振り払った部屋の中。
 渋沢は柔らかな光の傍で、心からの微笑みを浮かべた。



 たった今 暗い道のりを終えたであろう、不器用でまっすぐな少年に向けて。






渋誕2005企画様にて、お題【レッドカード】を担当させて頂きました。
提出が遅れた理由のひとつに渋沢キャプテンのために富士登山をやらかしたということがあるのですが(紛れも無い事実だったりしちゃうあたり末期)とにかくそれくらい渋沢キャプテンをお慕い申し上げております秋野です。
補足で説明させて頂きますと、勝手にオリジナル設定でナショナルトレセントーナメントの準決勝日(VS九州)を合宿四日目、決勝日(VS関西)を合宿五日目ということにしてあります。そこらへんの矛盾(原作で決勝前に時計が午後一時近くだったりとか)は なんとか脳内で誤魔化して頂きたく…

最後になりましたが、主催の森村様、そして他のエントリーされた方々へ千の感謝を。
ありがとうございました! キャプテンお誕生日おめでとう、フォーエバー!