ちろるちょこ♥大作戦! ―――Missions1 side:不破大地
昼食後、この寒い中午後の授業が始まるというのに何故か屋上に残ると言う水野に追い出されるように教室へ戻り、俺は席に着いた。授業が始まっても頭の中は、先ほど聞かされた新たな情報に占められている。
バレンタインデーに贈り物をする側の人間に、よもや自分も含まれていたとは完璧に予想外だった。しかし水野の口ぶりからすると、これは一般的な常識であるらしい。
現在は英語の時間である。必然的に机上にある多教科電子辞書を開き、広辞苑で【バレンタインデー】を検索する。
【バレンタイン・デー(St.Valentine's day):二月十四日。聖バレンタインの記念日。この日に愛する人に(特に女性から男性に)贈り物をする。】
『愛する人』ではなく『女や女役』という回りくどい言い回しを使ったのは恐らく水野がそのような言語を口に出すことに恥ずかしさを感じるからだろうが、液晶に表示された言葉の羅列は、概ね彼の言った内容と同じだった。
ということは、渋沢も自分が贈られる側の人間だと認識していたのではないだろうか?
しかし、先日会ったときはそんな素振りは一切見られなかった。だがそれは、彼が贈り物を自分から催促するような人柄ではないことからも全く当てにならない。
もしかして、表面上は何もないように振舞っていても心中では、自分が土曜に会おうと言い出してくれるのを待っていたのではないだろうか。
そこまで考え、唐突に頭上に射した影に気づき見上げるとそこには桜上水中サッカー部顧問であり英語教諭である香取夕子の姿があった。
「あら、さすがね不破君。行動が早いわ」
読み上げてくれる? と微笑む香取の肩越しに、意味が分からず黒板を見れば、白墨で大きく書かれた【St.Valentine'day】の文字。どうやら明日がバレンタイン当日ということもあり、今日の授業の雑談として取り入れたようだ。……偶然、と言うべきか否か。
俺が開いているのは広辞苑であり英和辞典ではないのだが、彼女はそれに気づいた様子もなく教科書を片手に待っている。
がたりと音をたてて椅子を引き、立ち上がって淡々と液晶の文字を読み上げた。
「───St.Valentine's day。二月十四日。聖バレンタインの記念日。この日に愛する人に、特に女性から男性に贈り物をする。……聖バレンタインというのは、西暦269年頃に殉教死したローマの司祭のことだ。日本でバレンタインの習慣が流行しだしたのは約1958年頃、比較的最近になる」
電子辞書と言えど、所詮は中学レベル。僅かしか載っていない内容に付け加えた情報は、俺自身の知識からだ。
「まあ、詳しいわね。不破君の言うとおり、明日のバレンタインデーはバレンタインという司祭の記念日なの。当時何があったか、説明出来るひといる?」
香取が言いながら教室を見渡すが、生徒は微かにざわつくも挙手するほどの者はいない。その光景に苦笑し、彼女は未だ立ったままだった俺に向き直った。
「じゃあ、不破君。分かる?」
頷きでそれを肯定し、文献からの知識を言葉に乗せる。
「当時のローマの皇帝であったクラウディアス二世は、若者たちが戦意を持たず、戦争に行きたがらないのを家族や恋人から離れたくないからだと考え結婚を禁止した。しかしそれを哀れと思ったキリスト教司祭のバレンタインが内密に結婚をさせていたのだが、それが皇帝の知るところとなりバレンタインは罪を認めることとローマの宗教へ改宗することを迫られた。当時はキリスト教が迫害されていたからな。しかしバレンタインはそれを拒み、269年とも270年とも言われているがその二月十四日に処刑されたという。……以降、二月十四日は彼の記念日となっている。日本では製菓会社がセールス的イベントにしてしまったようだが」
長い説明を終え口を閉じると、いつのまにか教室はしんと静まり返っていた。皆唖然としてこちらを見つめ、香取もひどく驚いたように口を開けたまま固まっている。
「……先生?」
「───え、あ、いいわよ。座って」
言葉どおり着席すると、彼女はむしろ呆れたように呟いた。
「ここまで詳しく言ってくれるとは思わなかったけど……相変わらずすごいわね」
「不都合でしたか」
「あら、いいえ違うわ、褒めてるのよ。───さてみんな、今不破君がとても詳しく説明してくれたけど、その通りよ。日本ではチョコレートを贈るのが一般的になっているけど、それはあるお菓子会社が始めたキャンペーンがきっかけで広まってしまっただけ。実際は恋人同士、親子、先生と生徒、それから友達同士なんかで贈り物をし合ったり、匿名でカードを送ったりするのよ」
香取が教壇の方に戻りながら、補足として付け加える。
以前俺は彼女の発音がどうにも気に入らず授業中に指摘したことがあったが、あれは一教師としてそれなりに屈辱だったはずだ。だがそれを後々まで引きずらず、今のように素直に生徒を賞賛する一面を見ると、普段は幼くも感じる彼女が大人なのだということを再認識させる。
「だから皆、先生に贈り物してくれる人がいたら大歓迎よ?」
茶目っ気を出して彼女が言うと、教室に笑いがさざめいた。同時に、スピーカーから馴染みになった授業終了のチャイムが鳴る。
香取が白墨で書かれた【St.Valentine's day】の文字を簡単に消している間に、日直が起立の号令をかける。一斉にがたがたと椅子を鳴らして立ち上がった生徒に彼女は向き直り、にこりと笑って授業の終了を告げた。
「さて、明日はお待ちかねのお休みね。みんな楽しく過ごせるといいけど……宿題は忘れないように! それではEveryone, See you next week and Happy Valentine's day!」
:::*:::*:::*:::
部活を終え、いつものように帰宅する。自室に荷物を下ろして着替えた後、俺はしばらく躊躇ったのちに携帯電話を手に取った。
昼間、水野が夜に明日の行動について詳細を連絡すると言っていたが、佐藤と違って渋沢は桜上水の生徒ではない。当然学校の予定も俺たちとは違ってくるだろうし、やはり早めにアポを取っておくべきだろう。
短縮登録してある番号を呼び出し、馴染んだコール音が途切れるのを待つ。
───三回、四回、五回、六回。
「………」
出ない。
まだ部活だろうか? しかしいくら武蔵森とは言え、大会中でもないのにこの時間まで部活を続けているとは考えにくい。第一、渋沢は出られないときは必ず数コールで伝言モードになるよう設定しているはずだ。
───七回、八回、九回、十回。
まだ、出ない。
もしかして、もう手遅れだったのか?
早めにとは思ったが、思い立ったのは今日遅くで実行は明日だ。既に別の予定が入っているのかもしれない。
そして水野に詳細を教えてくれるよう頼んだものの、明日会えないのでは意味がない。
……何より、渋沢が『明日』という日を誰か別の人間と過ごすことを考えると。
後悔と共に押し寄せるどうしようもない焦燥感に苛まれる中、コール音は鳴り続ける。
そして───
『……はい』
いつもより低く抑えたような彼の声が、俺の耳元に響いた。
「───しぶ、さわ……?」
いつもの柔らかい声音とは違う、硬質な響きが耳朶を打つ。
もしかして、怒っているのだろうか。
直前まで連絡しなかったから?
バレンタインという日を、正しく知らなかったから?
理由は幾つでも考えられる。しかし、あの渋沢が怒りを顕にすることは、余程でない限りほとんどない。
では今は、その余程の時なのか───
『っ不破くん!? ……いだっ』
ひたすら下降していく思考を打ち消すように、唐突にトーンが高くなり慌てたような渋沢の声がした。同時に背後で『いきなり声でけぇんだよバカ!』と三上の声と共に枕か何かを投げつけられたらしい音が聞こえてくる。
『ごめん……っていうかどうしたの、いきなり?』
「───怒って、いたのではないのか?」
『え? な、なんで?』
「声が……いつもと、違った。それに、お前にしては珍しく、すぐ出なかったから」
『あ、ごめんね。今日は変な電話とか多くて……非通知だったからまたそういうのかと思ったんだ』
「非通知?」
『うん。設定してたのか?』
どうやら俺は非通知設定にしていたのを忘れていたらしい。確かに非通知の電話が日に何本も来れば警戒もするだろう。
「そうらしいな。……忘れていた」
『あはは、不破くんらしいね。───でも、出て良かった』
「……何故だ?」
『何故って……不破くんからの電話を取らなかったら、後で絶対後悔するから』
柔らかな笑い声。俺の名を呼ぶ声。
───たった一瞬前まで果てしなく遠かったものが、戻ってきた。
『それで、どうしたの? 何か、用事?』
「ああ。───その、………明日、何か予定はあるか? 部活、とか」
らしくもなく、言いよどむ。グラウンドに立つ時よりも、鼓動は早い。
『え? 明日は、部活は休みなんだ。……ほら、バレンタインだから、ちょっと混雑がひどくなるから』
「バレンタイン、だから?」
『うん……ええと、女の子たちがね? 藤代とか、三上とか、人気あるから───うわっぷ』
突然うめき声がして、ばたばたと忙しない音がする。
「……渋沢?」
『───いいか不破ぁ、俺とかレギュラーは当っ然モテるけどな、一番人気あんのは渋沢なんだよ! 知ってっか?』
「三上……」
唐突に、スピーカーの向こうの相手が変わる。渋沢の寮における同室者であり、武蔵森サッカー部一軍10番の三上亮だ。
どうやら三上が渋沢の携帯電話を奪ったらしく、未だスピーカーからは携帯を取り合っているらしいどたばたという音や渋沢の抗議の声が聞こえてくる。
『今日もすごかったんだぜ? さっき言ってた電話ってのもどっからアドレス手に入れたんだか女の子からばっかだし、今朝とか下駄箱開けたらチョコが雪崩れ落ちてくるシーンなんて、漫画以外じゃ初めて見た───』
『っ三上!!』
ようやく渋沢が競り勝ったようだ。笑い混じりの三上の声が、切羽詰ったような渋沢の声に変わる。
『不破くんっ!』
「大丈夫か?」
『ごめんね、いきなり……三上っ』
はいはいもうやんねーよ、と相変わらず面白がっているような三上の声が、ドアの開閉音と共に途切れた。部屋を出て行ったらしい。
『本当ごめんっ』
「構わん」
『………怒ってない?』
「何故だ?」
図らずも先ほどと真逆のやり取りを交わし、渋沢が気まずそうに口を開く。
『ううん、なんでもない……』
「そうか」
怒っていないのは事実だ。渋沢は俺が腹を立てるようなことは何もしていない。
俺は、怒ってなどいない。
───ただ、何かよく分からない想いが下腹に蟠っているが。
無理にそれを押し殺し、本題に戻る。
「それで、明日なのだが」
『ああ、うん。特に予定は無いけど』
「それは良かった。……では、明日会えないだろうか」
『本当? もちろん構わないけど……でも、不破くんこそ何か用事があるんじゃないのかい?』
「家で祖父の実験に付き合う予定だったが、お前にアポを取れたのでな。実験など俺が居ずとも出来る、一日空けておこう。付き合ってもらえるだろうか」
『うん。楽しみにしてるよ』
:::*:::*:::*:::
その後俺たちは明日の集合時間や場所等を決め、二言三言話して通話を終了した。一先ず最重要事項である明日のアポイントは取れたようで、微かに吐息をつく。
武蔵森が明日、部活が休みだというのは少々予想外だった。本当は部活が終わるのを待つことになるだろうと思っていたのだが、好都合と言えば好都合だろう。ただ、休みの理由がどこか胸の内で引っかかっている。
部活を休みにせざるを得ないほどに、渋沢や三上、藤代など武蔵森レギュラーは女性に人気があるのだろうか。
三上の言葉も、気にかかる。
胸中に何故か鈍痛を感じさせる思考を振り払うと、メールの受信問い合わせをした。渋沢との通話中に一件来ていたようで、【1/1】の表示と共に無機質な着信音が低く鳴り出す。
受信の知らせを大して響かせもせずに受信ボックスを開けば、差出人は水野竜也となっていた。昼に話していた、明日の詳細を送ってくれたのだろう。早速開き、内容を確認する。
────────────────────────
件名:ちろるちょこ★大作戦
差出人:水野竜也
本文:
好きな人にチロルチョコを渡すための、作戦である。
〜
────────────────────────
「………」
───もしかして帰宅途中に頭でも打ったのだろうか?
メールを開いて最初に目に飛び込んできた、あまりに普段の水野らしからぬ文面に一瞬そんな心配が脳裏をよぎった。いやしかし、内容的には昼間の会話と符合している。
何ゆえチロルチョコでなければならないのか、とか大作戦と言わしめるほどの大規模なことをしなければいけないのか、など気にかかる場所は多々あったが、今の俺に頼れるのはこのメールのみ。保護設定をしたのち、内容の読解にかかる。
続く文面もハートマークやら何やらが乱舞していてますます頭部障害の可能性を肥大させたが、まあ恋は盲目と言う。恐らく水野は、普段素っ気無い態度を取っているが佐藤のことを本当に慕っているのだろう。故に、そんな気分ならば誰だってこんな文面に───なるのかどうかは分からないが、気持ちは分からなくも無い。
────────────────────────
〜
・ミッション1
見つからず、チロルチョコを買う。
(見つかれば計画遂行不可能)
〜
────────────────────────
まずはチョコレートを購入せねばならないようだ。確かにこれは贈答品そのものなので、無くてはならない。
しかし、【見つかれば計画遂行不可能】とは、一般的にはチョコレートを購入するのを対象人物に見つかりやすいということだろうか? もしや、自分の相手が贈り物を購入するのを見張るような行為も普通に見られるのだろうか。しかし仮にそうだったとしても、松葉寮と俺の家は歩いて来られるほどの近距離ではない上、既に寮は外出禁止時間に入っているはずだ。何より、渋沢がそのような行為をする人物でないことは熟知している。
明日の待ち合わせ時間までは起床時間から見ても余裕があるが、念のため今夜中に購入しておくのが一番良いだろう。
コートを取り、丁度今日は研究所から帰宅していたらしい乙女に一言告げて近所のコンビニエンスストアを目指した。
ドアを開け、一際煌々と照る灯りの中へ入り込めば暖められた空気と共に来客を迎える店員の声。念のため知人がいないか確認しつつ、店内を一巡する。通学路に面しているわけでもないせいか、店内の客はそんなに多くなく確認には手間取らなかった。どうやら安全のようだ。
一周して戻ってきた入り口に、入ってすぐ目の前の棚に【バレンタインフェア】なる桃色に飾り付けられた一角を発見する。置いてあるものはどれも煌びやかに包装されたブランド品だったが、水野から指示のあったチロルチョコは無いようだ。特設棚から離れ、一般的な菓子の置いてある区画まで足を運べば、すぐに小さな四角いチョコレート菓子が目に入る。
「……これか」
なんとか目当ては見つかった。……見つかった、が。
見つかりすぎてどうしたらいいのか分からない。
色も大きさもとりどりのチロルチョコの群れを見つめ、俺はしばし考え込んだ。
「………」
チロルチョコと一口に言われても、その中のどれを購入したら良いものだろうか。
味、サイズ、色、値段、個数。
全く分からない。
指示されないということは、ある程度は自分で決めても計画遂行に支障は無いということだろうか?
数分悩んだ。
結論。
分からなければ全て買えばいい。
菓子コーナーのみに据えてある小さな籠を持って来て、大量のチロルチョコの中から味の違うもの、大きさの違うものを一つずつ選び出し放り込んでいく。
選別作業が終了したときには既に、籠の中はかなりの量のチロルチョコで埋まっていた。こんなにたくさん贈ったとして、果たして渋沢は食べきれるのだろうか?
まあ、チョコレートだから日持ちはするだろう。
レジに向かいつつ、先ほどの【バレンタインフェア】の棚から適当な包装用の袋とモールを籠に入れる。誰も並んでいない会計には、女性店員が暇そうに佇んでいた。
籠を差し出すと彼女は中身を一瞥し、
「お包みしますか?」
包装用のパックでプレゼントだと分かったのだろう、気を利かせて聞いてくる。しばし迷った後、俺は微かに頷いた。店員はそれに微笑み、手馴れた様子で包装用のパックを開ける。
「恋人さんにですか?」
「ああ」
「可愛いプレゼントですね、きっと喜ばれますよ」
水野は可愛らしいからという理由でチロルチョコを買えと指示したのだろうか?
「彼女さん、チロルチョコ好きなんですか?」
「………いや、豆大福が好きだ。二つ、別に包んでくれ」
彼女というにはいささか(いやかなり)語弊があるが、店員の言葉で渋沢の好物を思い出した。明日、手土産に持っていこう。
レジのそばにある生菓子コーナーから、豆大福を二つ取って会計台に出す。レジ係はきょとんとした後、微笑して小さな袋に包装を終えたチロルチョコの包みと和菓子二つを入れた。
「ご利用ありがとうございました。良いバレンタインを!」
気のせいかエラい勢いで長くないですか秋野です。いや気のせいじゃないんですが。
一人称は初めて書いたので、かなりおかしなことになっていると思いますがお許しを(爆)
ていうかタツボン、香水とかつけちゃってるよ! なんかいじらしいよ!(笑)
まあとりあえず、二人ともミッションコンプリート!
次はミッション2ですね、頑張れ真冬(笑)
Date: 2005/05/08 秋野